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映画「アデルの恋の物語」について

イザベル・アジャーニの魅力に打ちのめされる…

2024年6月、DVDレンタルで鑑賞。
現在、本作品は動画配信サービスでは視聴できない。
1970年生まれのワタシにとって、「イザベル・アジャーニ」は、映画を意識的に観始めた頃1985年頃、とても話題になっていた女優である。
フィルモグラフィーを参照すれば、ちょうどリュック・ベッソンの「サブウェイ」が公開されたのが1986年で、それに出演していたためかと思われる。
そのため、いくつかのイザベル・アジャーニ出演作は随分昔に観ているのだが、これといって印象深い作品はない。
(特にワタシはリュック・ベッソンは好きではなかった)
齢50を過ぎ、これまで、断片的に鑑賞していたフランソワ・トリュフォーの作品を視聴な可能なものは全作品観るという計画を立て、現在進行中である。
トリュフォー作品は若い頃、まったく良さがわからなかったが、30代頃、「隣の女」を観たあたりから印象が変化した。
この監督の映画は、理解に苦しむ作品もあるのだが、逆に痛烈に心に刻まれる作品も存在する。

ということで、「アデルの恋の物語」なのだが、これはトリュフォーの映画というよりも、イザベル・アジャーニの映画という方が相応しい。
齢50の男のワタシなのだが、この「アデルの恋の物語」のアデル(イザベル・アジャーニ)に「恋」をしてしまったことを認める他はない。
手元にある「フランソワ・トリュフォー映画読本」で本作の項目を参照したところ、トリュフォー自身もイザベルに「恋」をしてしまったようだ…。
「(…)フランソワ・トリュフォーは『アデルの恋の物語』の企画を六年間もあたためていたが、テレビでイザベル・アジャーニを見て、即座に彼女のために脚本を書き直して映画化を決断した。「いままさに変化しつつある体と顔のすべて」を一刻も早く撮りたかったとトリュフォーは述べているが、その言葉にはまだ少女と女のあいだをたゆたう十八歳の女優の官能のゆらぎを見逃さずにつかまえたいという男の欲望の視線とも言うべきものが感じられよう。」(「フランソワ・トリュフォー映画読本」山田宏一著p414)
まさに、この映画は、20歳前後のイザベル・アジャーニの魅力に満ちあふれており、気丈な振る舞いや相手を見抜くような大きな瞳、透き通るような白い肌など、このときでしか撮られなかったものであるだろう。
個人的には、若いときから意志の硬い女性に惹かれてしまう傾向があるのだが、まさにこの映画での「イザベル・アジャーニ」はワタシの理想の女性に限りなくちかい。
他の方々の評価を読むと決して、この映画は、「古臭い」「平板である」という理由から決して好意的ではないものもある。
女性中心に描いた映画であるとは思うが、逆に男目線の女性像が女性には受け入れがたい部分もあるのかもしれない。
心理描写はそれほど深いものとはいえないが、史実であることが災いしているとも考えられる。
とはいえ、「アデルの恋の物語」はある種の人々には、つまりは、「イザベル・アジャーニ」を愛する者(愛しうる者)には、不可欠の映画であることには間違いない。
前出の「フランソワ・トリュフォー映画読本」によれば、実在したアデルは24歳のときにピンソン中尉と出会い、カナダに渡ったのは、33歳。精神に異常を来しフランスに戻ったのは、42歳だということだ。
これを18歳のイザベル・アジャーニに演じさせたのだった。
トリュフォー作品で、イザベル・アジャーニの出演作は本作のみだが、他に撮ったとしてもこれを凌ぐ作品はできなかったに違いない。
トリュフォーだけでなく、当時出会わなかったイザベル・アジャーニ出演作を回願する計画を建てなければならなくなった…。
これが幸福なことなのか、悲劇なのか?
女に追いかけ回される人生経験はまったくないが、女に振り回されることには不思議と幸福感を感じてしまう。
トリュフォーと同じようにイザベル・アジャーニ出演作も可能な限りすべて観なければならない。
これは「ワタシの恋の物語」のはじまりなのである。

2024年6月8日UP
※このテキストは、筆者がYahoo!検索(旧Yahoo!映画)に投稿したものを転載したものです。

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