哲学者と切実さを共有することーー『はじめてのスピノザ』を読んで
哲学というと難解なイメージがつきまとう。
難しい概念がたくさん出てきて、何を言っているのかが理解できない。
私自身も難解さに挫折を繰り返してきたが、それでも哲学が好きだ。
なぜだろうか。
それは哲学者の切実さを感じるからだ。
文章を書くのは大変な作業である。それも膨大な量の文章となるとなおさらだ。
哲学書というのは一つの構築物である。その壮大な構築物を前にすると、これを作り上げた苦労と、それを突き動かした切実さを思う。
哲学を難解だと感じてしまうのは、その切実さがうまく共有できていないからではないか。それは時代状況の違いによるかもしれないし、哲学者の抱える切実さが明示的に表現されていないからかもしれない。
そういう意味で、入門書の存在は重要である。哲学者と読者の距離を近づけてくれるからだ。特に、概念の分かりやすい説明もさることながら、哲学者の切実さを伝えてくれる入門書が、よい入門書だと思う。
そう意味で、最近読んだ國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ』は素晴らしい入門書だった。
スピノザといえば、ゲーテやアインシュタインなどが影響を受けたという哲学史上の大哲学者である。あまり著作は残しておらず、その数少ない著作の中でも代表的なものが『エチカ』だ。
しかし、この『エチカ』がとても読みにくい。内容も難解だけど、体裁もとっつきにくい。「定理」「証明」などと、あたかも数学のように、様々な論証が積み重ねられていく。断片的に魅力的な一節に出会うことはあっても、私にとって、とうてい読み進められない哲学書だった。
しかし、『はじめてのスピノザ』を読み、こんなに魅力的なことを語っている哲学者だったのかと驚いた。
エチカとはどういう意味か。岩波文庫版に『エチカ(倫理学)』とあるように、「倫理学」を意味する言葉だ。
では倫理とは何か。私は、「普遍的に妥当する人が守るべき原則」と理解していた。
しかし、國分さんは、エチカの語源を遡りつつ、以下のように説明する。
「仮に道徳が超越的な価値や判断基準を上から押しつけてくるものだとすれば、倫理というのは、自分がいる場所に根ざして生き方を考えていくことだと言えます」(國分功一郎『はじめてのスピノザ』講談社現代新書、39頁)
スピノザがいうところのエチカ(倫理)とは、守るべきもの、犯してはならないルールなど、普遍的なものではなく、もっと一人ひとりに寄り添ったものなんだ。
スピノザが『エチカ』を書いた、その切実さが伝わってきた。彼の哲学が自分にとってとても重要なものなのではないかという予感がした。
このような状態で、國分さんの分かりやすい説明を読み進めると、スピノザの哲学がとても魅力的に見えてきた。
例えば、本書によれば、スピノザの善悪の基準は「活動能力を高めるか否か」であるという(48-51頁)。
これは、ある事象がAさんにとっては活動能力を高めるが、Bさんにとってはそうではない可能性を示唆する。さらに、Aさんにとっても文脈が異なれば活動能力を高めないことすらありえる。
つまり、ある事象が普遍的に善であることはないということだ。
そのように議論を進め、國分さんは以下のように述べる。
「その意味で、スピノザの倫理学は実験すること(引用者注:実際には圏点)を求めます。どれとどれがうまく組み合うかを試してみるということです」(國分功一郎『はじめてのスピノザ』講談社現代新書、52頁)
私はここがとても魅力的だと感じる。つまり、スピノザの哲学は「行動することを促す哲学」なのだ。
観想することを通じて真理に至るのではなく、行動し、そのフィードバックを通じて、自分にとっての「倫理=生き方」を探るということ。
スピノザの善悪の定義を考えると、この捉え方が誰にとっても善であるわけではない。そして、将来の自分にとってもこの考え方が善である保証もない。
しかし、今の自分にとって、この考え方は私の「活動能力を高めてくれる」のだ。