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宮沢賢治「よだかの星」

絵 ぱぷたろ 文 いえろう

一応のあらすじ
醜いよだかが星になる話

初めてこれを読んだのは小学生の頃、朝の読書の時間でした。
ものすごく悲しくて泣いちゃって、鼻をずびずび言わせてたら、斜め前の席の女の子にチラ見されてドン引きの表情をされた覚えがあります。
なにせ当時は自己肯定感が今以上に低かったし、学校では周りから明らかに浮いていたし、その段階でよだかに強烈なシンパシーがあって耐えられなかったんでしょう。
なんでよだかがお星様にならねばならんのじゃ…なんにも悪くないのに…とか、おおよそ泣いていた理由はそんなところだったと思います。
今になって読み返すと、「なんでよだかが星になるしかなかったのか」だけは、ちょっとだけ理由がわかった気がしました。
よだかは、本当に、生きていくには優し過ぎたのですね。

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当たり前ですが、動物は何かを食べてエネルギーを得ています。
食糧生産と供給が行われる社会に生きている人間はあまり意識しませんが、生き物は全て食物連鎖の中で命を循環させています。
文明の力でその頂点に立ったと言われている人間。それでもアマゾンの奥地やサバンナの真ん中に身ひとつで放り出されれば、より強い動物達にひとたまりもなく食べられてしまいます。
こういう事実に目を向けずに生きていける社会の力というのは、偉大であり、ちょっと恐ろしくもありますね。
人間の中には、動物や動物性食品を食べない生き方を選んだ人たちもいますが、そういう選択ができるのは大前提として雑食だから。
しかし、よだかという生き物は、自然界の夜を生きる肉食獣です。食物連鎖の中では鷹に殺されうる存在であり、同時に自分より弱いたくさんの羽虫を殺して生きています。
よだかは自分が死ぬか生きるかの時に、初めて自分が生き物を食べているということを強烈に嫌悪します。
自分の尊厳が踏み躙られるその時に、小さな虫たちが、それこそ尊厳も何もなく自分に食われ、もがきながら死ぬことを自覚したよだか。胸が痛もうがなんだろうが、生き物を食べなければ死ぬ、という事実がもう嫌になってしまったのでしょう。
よだかが生き物を食べるのを拒むということは、生きること自体を拒否するのと同じことです。
自分の生命そのものに対する絶望、と言ってもいいでしょう。
全て生き物は、他の生物を殺して生きています。
食べるというダイレクトな行為はもちろん、巣を作って外敵を排除したり、人間であれば農地や薬を作ったり…生存のために環境を整える中で、何かの生き物は必ず犠牲になる。生存競争は椅子取りゲームと同じで、自分の席は自分で取り、他を蹴落としてでも守らなければならない。
生きる、というのはそれを受け入れたり、妥協したりしながら、自分の命を繋いでいくということでもあります。
己の命の価値に対して評価がとても高く、またそれが揺るがず、貪欲な鷹は悩みもしないことでしょう。川せみも、ひばりも、おそらく悩みません。生き続けていく上では、自分の命を維持していくために何かを奪う覚悟や逞しさはある程度必要です。
よだかはとても優しい心の持ち主で、その心の美しさは間違いなく美点です。しかし、生き物としては、精神的に繊細過ぎたのかもしれません。
自分より他の命を優先して、自分が守ってきた席を降りる決断は、重い選択だったでしょう。しかし生存戦略という観点から言えば、その臆病な勇気は間違いです。

ここまでは、生きることを選べなかった獣の弱さの話でした。ここからは、そういうのは一回置いて、よだかの生き様の話をします。
生きることだけが絶対の正解だと言わないのなら、やっぱりよだかは強かったのだと思います。
よだかは周りの鳥たちにどれほど馬鹿にされても、今まで生きてきました。そんな彼は、鷹に名前を無理矢理変えられ、しかもそれで挨拶回りをするという辱めを受けるか、鷹に殺されるかという二択を突きつけられて、初めてそのどちらでもない「星になる」という道を選択したのです。
これは本当にすごいことです。
よだかは、太陽や星々のもとに行き、死んでもいいから一瞬でも空の光になることを望みました。
誰からも顧みられず、低く見積もられ続けたよだかが、世界によだかとして生きた自分を刻み込むことを最後に掲げたのです。
生き物としての死とアイデンティティーの死の二択を突きつけられたその時に、自分の存在を貫き、死んだとしても「よだか」であり続けることを結果として選んだ。
彼にできる、最大限の命の価値の証明をしようとしたのかもしれません。

この物語では、強いものはどれも傲慢に描かれます。
鷹はもちろんのこと、よだかの目指した天体たちは輪をかけて上から目線です。
太陽はよだかを憐れんではいますが、しかし、助けません。管轄違うから他当たれとか役所かよ、以外の言葉が出てきません。一見優しそうには見えますが、それだけです。
後の星々も皆、よだかの願いを聞きはしません。
きっと彼らには、弱いものの言葉なんて等しく無価値だし、その中で自分の誇りを選んだよだかの心など分かりはしないのです。
生き続けることは選べなかったけれど、それでも最後に自分の存在を示そうとしたよだかの想いは、多分星よりずっと切実で美しくて尊いものなのだけれど、そんな目線自体がそもそもないのでしょう。自然は全ての存在に対して良くも悪くもフラットですからね。でも、やっぱりすごく残酷です。
失意の中で落下していくよだかは、しかし地に落ちることなく再び飛び上がります。
誰も自分を受け入れてくれずとも、それでも、よだかは最後まで飛びました。もう何もわからなくなっても、飛び続けました。
どんな想いだったのか、想像することさえ難しいほどの凄絶さです。自分はどうなってももう飛び続けるしかない、という凄絶さ。
凍え、痺れ、自分の向きもわからず、血を流しながら飛んだよだかの体は、本当はどうなったのかは分かりません。しかし、その決死の覚悟が、よだかの存在をどんな鳥より高く輝く、美しい星にしました。
それは不変の価値となって、今も夜空で燃えている。

さて、センシティブな話題にはなるのですが、結びに少し2020年のしんどかったニュースの話をしようかと思います。
端的に言って仕舞えば、自殺についてのお話です。
この時点で読むのが辛くなってしまった方は、ここは飛ばしてください。

これを4人で朗読した2020年は、間違いなく世界史に残る激動の一年でした。
個人差はあれ、誰もが心身をすり減らし、くたびれてしまった。
そういう中で、何人もの著名人の自殺がニュースで報じられました。
世間に疎い我々でも知っていたし、それなりに堪えた報道だったようです。だからか、よだかを読んだ時その話題になりました。
自殺は、周りの人間からはどういう思いで下した選択だったのかさえ分かりません。
ただでさえ、死というものはものすごく個人的な体験です。本人にとっても、近しい周囲の人にとっても。
死因がどうあれ、我々が故人を思って言えることなんて(故人の宗教観に反さない限りはですが)もう「ご冥福を祈ります」くらいしかないのです。
でも、本当にこれに尽きるのだと思います。

本作品は、よだかは「今でもまだ燃えています。」という文章で終わります。
それは、どういう状態なのでしょうか?
空にあり続けるよだかは、今もその身を焼き尽くしながら、苦しみながら必死に空を飛んでいるのでしょうか?
世界の多くの宗教では、自殺を戒めています。作者の宮沢賢治は非常に敬虔な仏教徒でしたが、仏教でも自殺とその教唆・幇助はNGです。主要な宗教は、どれも自殺を犯すとその人の魂に大きな苦痛を生むと規定しています。
宗教は、病める時も健やかなる時も、人の生き方そのものに強い影響を与えうるものです。だからこそ、宗教が自殺を積極的に肯定するようなことはまずないでしょうし、なくて良いのだろうとは思います。
では、よだかは?
個人的には、自殺の是非とは関係なく、星になったよだかに苦しんでほしくありません。最後の時に一瞬微笑んだように、今も穏やかに笑っていてほしいと思います。これは、よだか以外もそうです。罪や罰という理屈は置いておいて、最終的に自分の命を捨てる決断をするほど苦しんだのなら、せめて安らかであってほしい。
これは生き残った人間のエゴなのかもしれませんが、そう願わずにはいられません。

夜空の星になったよだかには、もう昼を飛ぶ鷹の爪は届かない。
夜空は孤独ですが、他者との間で害し害されることのない、彼にとっての理想郷で、静かに微笑んでいてくれればなによりです。


以下は直前までのシリアスな話題とは全く関係ない、完全なる余談です。

これを朗読した時は、4人とも妙にテンションが高かった気がします。
わたしやまっかさんは某国の国民なので、心の中は生きているなら燃えてやれッ🔥していました。
よだかの星をアニメでやるならサブタイトルはどうする?みたいな話もしていました。1話と最終話のサブタイはどっちも「よだかの星」だわ、とか話していたのは覚えています。
この場合1話の「よだかの星」は「よだかが見上げた星」、最終話は言わずもがな「星となったよだか自身」を指すんだ…うっひょー!とかなんとか。
オタクは1話と最終話で同じ文面だけど意味が全く異なる解釈ができるサブタイが大好きです。
あと1話と最終話で対になっているサブタイも大好きです。

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