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文科省のいう「観点別評価」の愚かさ

憂さ晴らしアカウントにはしたくないんで、あまり文科省の悪口は言いたくないんですが、大学入試改革の迷走っぷりとか観点別評価の導入については擁護不能です。

そこで今回は教員っぽく観点別評価について語ってみます。ちなみに観点別評価は小中高で段階的に導入されていまして、今回ここで語るのは主に高校の内容です。

観点別評価とは

文部科学省は学習指導要領という学校教育のルールブックみたいなものを定期的に改訂しています。かの有名な「ゆとり」「生きる力」といった一般に膾炙するコピーを生み出しているのもコレです。そして近年、大きく変わったのは観点別評価の導入です。

たとえば国語が「よくできる」ので評定が5、みたいな感じでは大雑把すぎるので、国語の「知識技能」はよくできるからA、「思考・判断・表現」はふつうだからBといったように、観点ごとに評価を出しましょうねというルールです。一見すると問題なさそうなルールですよね。

観点を分けなきゃいけない分、教員の業務は増えるわけですが、それは仕方がないとしても、観点の中身が問題です。「知識技能」「思考・判断・表現」まではいいとしても、「主体的に学習に取り組む態度」というのがヤバい。ヤバすぎる。何がって、意味がよくわからないから。

主体性をどのように測るのか問題

この観点の問題は、評価方法が明確になっていないことです。

文科省は「はじめに言葉ありき」といった感じで、「主体的に学習に取り組む態度」という観点をつくったから後は現場でうまく評価しろよとぶん投げているに等しい。主体的、主体的ねえ……。「うーんこの子は一生懸命やってるから主体的に学んでいるな、Aをつけてあげよう」とかやっちゃったら、教員の主観以外の何物でもないしなあ。

と、現場の教員は悩むわけです。主体性ってどう評価すんのよという話です。

これに関して、文科省は当初、言い訳がましいことをいいます。2016年、ある下部団体(中央教育審議会の中の初等中等教育分科会の中の教育課程部会の中の総則・評価特別部会)の資料から引用しますが、

また、「主体的に学習に取り組む態度」については、学習前の診断的評価のみで判断したり、挙手の回数やノートの取り方などの形式的な活動で評価したりするのではなく、子供たちが学習に対する自己調整を行いながら、粘り強く知識・技能を獲得したり思考・判断・表現しようとしたりしているかどうかという意思的な側面を捉えて評価すること。このことは現行の「関心・意欲・態度」の観点についても本来は同じ趣旨であるが、上述の挙手の回数やノートの取り方など、性格や行動面の傾向が一時的に表出された場面を捉える評価であるような誤解が払拭し切れていないのではないか、という問題点が長年指摘され現在に至ることから、「関心・意欲・態度」を改め「主体的に学習に取り組む態度」としたこと。こうした趣旨に沿った評価が行われるよう、単元や題材を通じたまとまりの中で、子供が学習の見通しを持って振り返る場面を適切に設定することが必要であること。

(文部科学省-2016-学習評価の改善に関する今後の検討の方向性)

ようするに、「ノートの取り方」とか「手を挙げた回数」とか、そういう客観的に測りやすいことだけで評価したらつまらんから、もっと内面までよくみて評価せえよと言っています。なんなら現場の連中の理解度が不足しているから世間様から誤解されちゃったじゃねえかと文句まで言ってきます。

しかし客観的な指標をなくせば、単に主観的な評価になっちゃって、なぜその評価になったのかが外部に説明できなくなりませんか。それはよくないと思うまともな感覚を持っているからこそ、現場は困っていたわけです。

そして2019年。これに関して、もう少し突っ込んだ内容が出ます。

このことを踏まえ、「主体的に学習に取り組む態度」の評価に際しては、単に継続的な行動や積極的な発言等を行うなど、性格や行動面の傾向を評価するということではなく、知識及び技能を獲得したり、思考力、判断力、表現力等を身に付けたりするために、自らの学習状況を把握し、学習の進め方について試行錯誤するなど自らの学習を調整しながら、学ぼうとしているかどうかという意思的な側面を評価することが重要である。現行の「関心・意欲・態度」の評価も、各教科等の学習内容に関心をもつことのみならず、よりよく学ぼうとする意欲をもって学習に取り組む態度を評価することを本来の趣旨としており、この点を改めて強調するものである。
本観点に基づく評価としては、「主体的に学習に取り組む態度」に係る各教科等の評価の観点の趣旨に照らして、
① 知識及び技能を獲得したり、思考力、判断力、表現力等を身に付けたりすることに向けた粘り強い取組を行おうとしている側面
② ①の粘り強い取組の中で、自らの学習を調整しようとする側面
という二つの側面を評価することが求められる。実際の評価の場面においては、双方の側面を一体的に見取ることも想定される。

ごめんなさい、間違えました。ここは抽象的でよくわからないことを言っているパートで、重要なのは次でした。

具体的な評価方法としては、ノートやレポート等における記述、授業中の発言、教師による行動観察や、児童生徒による自己評価・相互評価の状況の考慮など、各教科等の特質に応じた多様な方法を工夫する。

(ともに文部科学省-2019-児童生徒の学習評価の在り方について(報告)の概要)

なんと、やっぱり具体的な評価する対象てはノートチェックとか授業中の発言でした。

数年前に「挙手の回数やノートの取り方などの形式的な活動で評価したりするのではなく」と小馬鹿にしたにもかかわらず、具体的な評価方法は同じでした。結局のところ、文科省は具体的な評価方法がイメージできていないにもかかわらず、「主体性は大事だから観点に加えよう」と決めてしまったのでしょう。

こうして評価の仕方がわからない謎観点が誕生したのです。

じゃあ対案だせよ……

こうやって茶化したりすると、必ず対案出せよとツッコまれます。以下、私ならこうしたのにというのを書きます。

まず、日本人の子どもに「主体的・対話的で深い学び」が必要だと思うところまではいい。実際、イヤイヤ勉強してはいけない。勉強が「できる」ことも大事だが、勉強が「好き」という前向きな姿勢を身につけなければ、その後の人生で学ぶのをやめてしまい、結局は役に立たなくなる。(学校教育はあくまでベースづくりであって、実際の業務レベルで活躍するのはその後も学び続けて得たスキルだけですしね。)なんとかして主体的に学ぶようにしたい、その気持ちは共感できる。

しかし、それが評価できるかは現実的に判断すべきだ。はっきりいって、世の中には測れないけれど大事な能力がたくさんあって、主体性なんかはその一つだろう

それって、就活の世界を知っているならすぐわかることだ。「指示待ち」ではなく「主体的」な社員がほしい企業は多くある。そこで企業が採用時に「人物重視です、これまで意欲的に動いたかどうかをみます」みたいなことを公言すると、応募者は面接であやしげなリーダーシップ経験とか起業エピソードとかをまくしたてるだけの嘘つき合戦になってしまう。そうして雇った人材は、本当に欲しかった人材とは異なるので、結局はうまくいかない。

この企業の何が間違っていたか。重視する指標が確実に測れると信じる、その考えが短絡的であったのだ。文科省も同じである。主体性は大事だが、測れない。そういう現実的な諦めからスタートすべきなのだ。

ってなところです。

そのうえでいうなら、従来の評価はそこそこうまくやれていた方だと思っています。このケースでは、「主体性を大切にしようね」と子どもに訴えかけるのみで十分であり、特に評価制度まで変える必要はなかった。変えたところでどうにもならないからです。

まあ、評価についていうと、個人的には段階が少なすぎる、1~5の5段階じゃなくて1~100の100段階ぐらいでちょうどいいんじゃないかなという感覚はありますが。

それはそれとして、処世術を

私は教員生活の中で、文科省が迷走しているなと感じたら、あまり本気で考えないようにしています。そこでイライラしてケンカしてもしようがないので。

しからば、謎ルールが誕生し、これを遵守せよと訴えてきたらいかに対処するか。

簡単で、極力無視すべきです。謎のルールはどこかしら欠陥があるので、無視しているうちに気が付いたらうやむやになっているもんですから。

大学入試改革のときのeポートフォリオとかね。共通テストの国語に記述問題を入れるとか入れないとかね。

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