なんもしなかった、なんの結果も出なかった3年。
おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ。
ミヒャエル・エンデ
今日、母校が、高校野球地区大会の決勝進出を決めたらしい。
あと一つ勝てば甲子園だ。
がんばれ〜〜〜!
思わず応援したく成るよ。
友人に言われた。
「高校野球はいいんだ?五輪否定しているのに。観ない、興味ないって言っているのに、五輪は」
そうね、五輪は、日本でやろうが、中国でやろうが、欧米でやろうが、五輪自体の存在を否定しているだけだから。
アマチュアの祭典がいつのまにかプロが参加するようになり、金儲けの祭典になっているし。
どの世界大会、プロの世界大会を含めて、プロレスやK-1やRIZINなんかも含めても、最も不純なスポーツを利用した金儲けのお祭り騒ぎに成り下がっているしね、必要ない。
それだけのことだ。
五輪は社会悪だとわたしの中では位置づけられている、ロス五輪以降は特に。
せめて、プロアスリートを一切排除するくらいの姿勢をみせれば、少しは興味を取り戻してやってもいいけどな、って上から目線的立場で五輪という大会は見下している。
高校野球?高野連?
確かに、問題多いよね。
時代錯誤も確かにある気もするし、一部の人間がどうしても利権と権力を持って支配的なのはよろしくない。
でも、あくまで高校球児が主役というところだけは外れていない。
他のスポーツ大会もそうだね。
どこにでも、いまどき利権も絡めば、権力を手にして好き勝手しようとする不届者は現れる。
でも、五輪以外は、結局は選手が主役であることからは外れていない。
五輪話になってしまった。
こんな話をする気はなかったのだが。。。
もとい。
で、準決勝・決勝はなんと東京ドームでの開催だという。
すげーな、ついに東京ドームでやってんだ、高校野球!
って、今日の準決勝の報を何日か前に高校時代の友人に教えてもらった際に、そっちに関心がいってしまった😅
さすがにオレでもドームで野球したことないぜ、東京に生まれ育ったけど。
と、なんかよくわからないような考えが浮かんできて、なんでそんなことを思ったんだろ?と、なる。
確かに、元野球少年だったが、中学3年生の夏休み前までだ。
それ以降は、野球への興味は笑けるくらいに失せてしまった。
だから、ドームも甲子園も西武球場も関係ないんだけどなぁ。
で、思い出した!
あ!あの経験のせいかも?
高校3年の時の話。
うちの高校では、当時、3年の秋だったっけな?、時期は忘れてしまったが、各クラス、球技大会をするっていう日があった。
野球をするクラスもあればサッカーをするクラスもあった。
だいたいどちらかだったんじゃないかな。
ラグビーもあったかもしれない、当時、ラグビーも強い高校だったから。
で、うちのクラスは野球大会にした。
50名近くいたので4チームくらいに分かれてやったんじゃない?
結果も、自分がどこを守って、何番で打って、打てたのかどうかも、全部忘れてる。
ただ久々に野球ができるので、結構はしゃいでたのだけは覚えている。
うちらの代で夏の甲子園に初出場を果たしている。
ただ、うちのクラスには野球部は一人もいなかった。
でもって、中学まで野球をしていたという人間も、ほとんどいなかった。
でも、野球をやっちゃった。
それも神宮球場で。
担任のセンセが、野球部の顧問で、都だと思うけど、全国の方ではにと思うけど、高野連の理事だかなんか役員をやっていて、色々と顔が利く方で、おとなしくて、柔和なセンセなんだけど、ちょっといたずらっ気がある、面白い方だった。
だから、多分、俺らガキを驚かせて面白がってたんじゃないかな。
クラスで何をするかを決めた際、
「野球にすればTセンセが球場とか全部セッティングしてくれっから楽っしょ😆」
みたく、冗談半分に決めたのを覚えている。
したら、
「分かった。じゃ、球場と道具は用意しておくから」
と、嬉しそうに笑ってられた。
そして用意されたのが神宮球場。
六大学野球の聖地であり、ヤクルトスワローズの本拠地。
まさかそんなところで、全クラス参加のクラス対抗戦ですらなく、単なるクラスの球技大会、いや大会というよか、リクレーションに用意されたのが神宮球場。
そうです!わたしは神宮のマウンドには立ったことが有るのです!
それは覚えてる。
投げたかどうかは覚えてないけど、神宮のマウンドでヘラヘラみんなとしてたのは覚えてる。
その経験からだな、「オレでさえ東京ドームに〜〜〜」なんてふらちな思いが湧いて出たのわは。
そういやぁ〜、あの頃に教えられていたのかも。
なんにもしなかった高校時代ってのが教えてくれていたのかも。
クラブもしない、勉強もしない、グレもしない、街場で遊ぶこともしない、ひたすら学校で気の合うやつとだけ戯れて、あとは筋トレしたり走ったりを無駄にする毎日。
でも、なんもしないし、存在意義なんてもんも考えないし、青春してる感もまったくない日々だったけど、面白かったな、なんか、意味なく。
あの3年間は無為に過ごせた大事なときだったようだ、わたしにとっては。
3年で成し遂げたことが一切ない高校時代があったればこそ、なんか、何かできなきゃ、生産性がなきゃ存在の意味はないという考えに異常に反感を持てるし、自分のなかにそういう生産性を求める考えが少しでも浮かんだ時に自分自身に対しても辟易できるようになれたのかもしれない。
はたから見たら、なんて意味のない糞つまらないどうしようもない高校生活に見えるかもしれないが、自分にとってはやはり最高の高校時代だったようだ、なんの根拠もなくそう思えるのだから。
ほんとの大事ってのは根拠も意味も理由もないんだなぁ、って、感受性に叩き込めてたのかもしれない。