驚愕の共有
人間は驚かなくなったら終わりだと思います。
子どもというのはよく驚くでしょう。
子どもは、あらゆるものが珍しくて不思議で仕方がないのです。
宗教とは、今ここに自分が存在しているということの不思議に驚くことです。
大峯 顯
昔、MAZDAのユーノスロードスターという車に乗っていた。
発売と同時に速攻で買いに行った。
もう、30年くらい前だ。
この初代のユーノスロードスターは、ヘッドライトが開閉式だった。
ヘッドライトのスイッチをONにすると、バンパーからパチと眼を開くようにヘッドライトが飛び出す。
で、その車で姉のところに遊びに行った時、当時、たぶん一歳くらいだった甥っ子が姉に抱かれて、変える際に見送ってくれた。
「バイバイしなさい」
と言われた甥っ子は、どこで覚えたのかペコリと頭を下げた。
それに合わせてヘッドライトを付けて消した。
車がウィンクしたというか、甥っ子のペコリに併せて会釈した感じだ。
甥っ子は、絵に描いたような顔。
目を丸くするってこんな顔だな、というお手本の幼な顔をして踊りている。
そしてペコリ。
併せてパチリ。
驚愕!
これを3〜4回やって、わたしはとっとと帰った。
そのあと、彼が興奮して眠れなくなったかどうかはしらない。
いや、子供の驚愕で思い出した。
子供って本当に天才だと思う。
何でも興味を持って、何でも驚愕して
「なんで?なんで?なんで?」
となる。
こんなこと不思議でもなんでもないんだよ。
当たり前のこと。
常識だよ。
こんなふうに思うようになったら、もうお終いだ。
ツマラン人間になった証拠だな。
知っちゃうってつまらないよ。
じゃ、本当に知っているのか?わかっているのか?と言われたら、自分の知っている範囲で知っているにすぎず、思い込みでしかないことも儘あり、実は根本は何も解っちゃいない。
ただ、わかっちゃたほうが楽だし、面倒くさくないし、自惚れることができるし、他人よりか上の気になれるし、そんなところでしかない。
「ねぇねぇ,なんで?なんでなんでなんでぇ〜???」
「うっせ〜、知らねぇよ。けどそうなんだからしようがねぇだろ!」
まだこっちのほうがマシな気がすることがある。
「これはこれこれこうだから、アタリマエのことさ」
と、調子づいているより。
なんで心臓が動いているのか。
なんで息ができるのか。
なんで生まれた時と既に全く違うもので作り上げられているのに、わたしはわたしと言えるのか。
まったくわからん。
もし医学や科学の論文でそれを解き明かされていて、それを読んで内容を把握する能力が有ったとしても、理論上そうであろうとされていたとしても、おそらく納得はいかない気がする。
きっと、医学者や科学者は、わたしどころではない疑問をいっぱい感じているのだろうな。
いま、こうして生きていることが驚きなのだろうが、それはさすがにできない。
だんだん、なんか知っちゃていて、なんか感情が疲弊してしまって、驚けなくなってきている、確実に。
だから、子供が持った疑問や驚きを、こちらに投げてくれた時はチャンスだ、一緒に驚ける。
正月2日に甥の子供達が遊んでくれた時、あいつらは沢山の驚きを、感情を、共有しようと誘ってくれた。
正直に言おう。
めちゃ疲れた😆
流石にありゃてんこ盛りすぎて、楽しかったけど、過呼吸状態だったぜ😆
でも、またわけのわからない世界に引き摺り込んでもらいたい。
驚きは自分でできなくなっても、共有を促してくれる人がいたら、素直に一緒に驚けばいいだけだ。
彼の驚きへの答えはないのだから、必ずわたしもそれに乗ることができるはずだ。
そんな軽い感じでいたいもんだ。