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先生と呼ばれるほどの・・・。

「親鸞は弟子一人ももたずそふろふ」
人間が人間を所有するということから、一切の社会の悪というものが出てくる。
夫が妻を所有する、親が子供を所有するということが、日本の家族制度のなかで、どれほど、ほんとうの人間の尊さが損なわれたかということは、わたくしたちがつぶさに体験してきたことであります。

         佐古純一郎

今日は午後から会議だ。

久々に都心部へ出ていく。

電車にも乗る。

せっかくだから、少し早めに出て、イケセイで買い物をしよう。

買わなければならないものが数点ある。
それとは別に、冬用のダウン系のジャンパーかハーフコートのようなものが必要なので、少し見て、当たりをつけてこようと思う。
だいたいどこにどんなもんが売っているのかすら分からんし、値段の見当もつかないので下見だ。
ついでに、シャツ類も見てみようとは思う。
でも、疲れたなぁ、と少しでも思ったら、なんも見ずに終わるだろう、いつものことながら。
もう、何年も自分で服を買っていない。
服を買うと、これ以上さすがに着れねぇな。
ヤバいな、着るもんがない。。。となるまで買う気になれないだけだ。
そして一昨年辺りから、一枚、また一枚、ついには長年着ていたダウンのジャンパーまで、ズタボロになり、やばい状態ピークに近づいてきたのだ。
シャツは、背中が裂けていたり、脇が裂けていたりで、
「ま、上からジャケット着るからいいや」
で、着ていたりするのだが、そうなると暑くても上を脱げない。
これも困ったもんで、
飲みに行って、
「ジャケットお預かりいたします😃」
と、言われても
「結構です😅」
と、断らねばならず、ガンガン暖房が効いた店で、ひたすら汗をかきながら過ごすことになる。

基本、昔から、ファッションというものに、服に興味がない。
寒い時は暖かければそれでいい。
丈夫なものがいい。
昔はポケットが多めが良かったが、最近ではポケットが多くてそこにもの入れていると重くて疲れるので嫌だ、そんなこだわりくらいしか無い。
ユニクロや無印には下着類は買いに行くが、服は買いに行くことはまず無い。

服への欲求がないとは言わないが、ごくごく少ない方ではある。

所有欲は、なにかとここのところ書き連ねているが、iPhone・自動車・テレビ・カメラレンズに向けられている。
これらへの欲は普通にある。

オレのものにしたいと思っている。

でもって、人間に対しての所有欲、所有意識は確実にある。

結婚もしていない、子供もいない。
先生と持ち上げられる、つまり弟子ができるほどの頭もないし、人間性もよろしくない。
運動もダメだし。
教えを乞われることがないでお陰でいる。

ゆえに、他者に対して「オレのもの!」という欲はさほどないで済んでいる。
まったくないわけではない。
ヤキモチも焼くし、羨ましく妬むこともあるから、
「オレのダレダレ」という所有意識は確実にあるのだろう。
ただ少ないし、そのあたりはすぐに傷つきたくないので諦める。
「クソッ。まいいや。また違う人探そ」て具合だ。
臆病者であることの利点かもしれない。

で、じゃぁ、どこに人間に対しての所有意識があるのかと言うと、それは自分自身に対してだ。
「オレは、オレだけのものであり、オレの自由だ!」と、確実に勘違いしている。

「自分の命を自分だけのものと考えるな。君のものであると同時に親兄弟や友人を始めとするみんなのものなんだ!」
なんて聞くと、何いてんだ?、と思っている。

「自分の命なんてもんはない。全ては頂きもんであり、縁によってたまたまあるものだ。誰のもんでもない。それが証拠に、紙一本、爪一枚、自分の意志で伸ばしたり縮めたりすることすらできない。心臓を意志で止めて、意志で動かすこともできない。血流を止めたり、流すこともできない。一切は、いただきもんだ」

なんて思うわけだが、実際の本音は、
「ざけんな!オレのもんなんだよ!オレだけのもんなんだよ!」
ってところにあるようだ。

「ようだ」というのは、無意識でそう受け止めているとしか思えないから。
無意識ということは、身に付いてしまっているということだ。
息をすることや、血が流れること、心臓が動くこと、細胞が入れ替わること、それと同じくらい身に付いているのだな、自我という所有観念は。

こいつはとっぱらうことはできそうもない。

今日は、人権・差別に関する会議だ。
そういう会議に出ると、人間が持つ所有意識が、所有観念がどれだけ他を傷つけ、いがみ合い、住みづらい社会を自らが作っているということを思い知らされる。
そこで突きつけられるのが、オマエもその社会を作り出している一因なのだというこの身の事実ってやつだ。

所有欲は無くならないと思う。
自我がある限り、「わたし」という意識がある限りは。

それならば、「所有物」という当て嵌めをしてしまっているという事実は、せめて認めろよ、という話だな。

先生と呼ばれるほどのアホじゃ無し、ということばがあるが、先生と呼ばれてやな気がしない時点で、もう先生なんだよな。

そういやぁ、仕事がら、先生と呼ばれてんな、、、。

いま、改めて気づいたら、複雑だぁ〜〜〜〜〜!!!!!

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