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アリバイは自分では作れない。

色が赤のみであったならば赤という色は現われようがない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ。
実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。

          西田幾多郎


最近、KALDIの「ぬって焼いたらカレーパン」てのにハマっている。

ハマっているというか、買ってしまったので、なくなるまで食べることにした。

ラジオで紹介していたのだが、「いま人気」と、「食べてみたけど。本当にカレーパン」ということだった。

てっきりその時は、カルビーだとばっかり思っていた。

で、たまたま石神井のKALDIに行ったっら、ラジオで言っていたのと同じようなもんがあり、「ありゃま、いま、パンに塗ってトーストするとカレーパンになる系が流行っているのかな?知らなかった。カルビー以外にもKALDIでも出して・・・!!!ぁあ〜!KALDIだったのか!」とようやく気づき、買ってみた。

食パンも買い込み、さっそくパンに塗りたくってトーストして食べてみた。

たしかにカレーパンぽいんだけど・・・なんか違う・・・これは他にあったぞ、この味の感じ・・・!!!
そう!カールのカレー味だ!
懐かしい!
なんだよ、カールじゃん!やっぱカルビーでいいんじゃん!😆!

カールは明治製菓だし・・・。

とろけるスライスチーズを塗ったくったパンに乗せて焼くと、カレー味のピザみたいでこれもいい。
昨日、今日はチーズを2枚乗せて食べた。
多めに塗りたくって、2枚のチーズ、これが一番わたくしてきには好きだ。

まんまで食べるなら、カールを食べる気分で食べるのがいいので、3時ころに食べる感じだな。
それにつけても、おやつはカール♪だし。

これ、たぶん、カールを知らなかったら、ワタクシ的には受け付けられない系だったかもしれないな。
個人的な好き嫌いの問題で、最近はこういう味は苦手だな、と思える味だと思う。
子供の頃にカレー味カールを食べて喜んでいたので、それを彷彿させられるために脳が受け入れて、好きな味側に入っている、そんな気がする。

カールという比較対象があって、はじめて認められる存在であるのかもしれない、わたしにとっては。

そういうものってけっこうある気がする。

認められらる、認められないを子供の頃の下の感覚で決めること。

わたしの場合は、ナポリタン・オムライス・醤油ラーメン・鍋焼きうどんなんかは代表的なものだな。
特に厳しい判定をしがちなのは、オムライスとナポリタン。
これは、「確かに、このパスタ美味しいけど、ナポリタンじゃないな」「オムライスじゃないな」となる。
メニューに「ナポリタン」「オムライス」と載せてくれるな、とまで思ってしまうことすらある。

食べ物以外でも比較してしまうな。

海で観る夕焼けは日本海側に限るね。
あの濃くて、暗い感じの夕焼けが何とも言えず好きだ。

オレンジ色の肉い奴!てきな太平洋側の夕焼けはそれはそれでいいのだが、それを観ていると無性に日本海の夕焼けが観たくなる。

赤にも色々あるもんだな。

何でもかんでも比べることで、そのものをより評価するというところがある。

「ここのラーメン美味いな!」
「ここの景色綺麗だな!」

でいいのだが、

「ここのラーメン、どこそこラーメンとにているけど、こっちのほうがより美味い!」
「きれいな景色だな!いぜんどこそこで観た田園風景よりこっちのほうが雰囲気がいい!」

ってかんじで、する必要のない比較をすることが多いようだ自分は。

そのもの個の存在を受け止めて、評価することができないのだろうか。

だいたい、評価、という作業そのものが、何か自分の中にある基準をもとに付けているだけで、その基準のもとはそれまでに溜め込んだ自分の食べたものや観たもの聴いた音、そんなものだ。
評価ということ自体が個を個としてみることを放棄する作業のようだ。

美味いも不味いもそれまでの蓄積された感覚からなる。
好き嫌いも同様。

ようするに、人間として生きていく以上は、見る、聴く、臭う、食す、肌で感じるものは、生きれば生きるほど、情報を得れば得るほど、比較・差別・分別し、選択をしていかねばならないわけだ。

こんな事は言われないでも皆どこかで感じている。

無意識下にある感覚。

無意識下に潜む差別心。

人間が住み、集団を形成し、干渉し合いながら生きる以上、互いに間を図り合いながらも迷惑していくしかない。
そこで、その間をなるべく、できるだけスムーズにするためにルールを作る。
でも、そのルールも、大多数の人には受け入れやすいルール、力を持つものが過ごしやすくするルール、弱者や少数の者はともすると切り捨てられてしまうような危うさを持っている。
だって、皆、不完全で、差別心を無意識下にせよ持っている人間が作り出すものなのだから、不完全なのは当り前だ。

だからこそ、自分に差別心がある、自分の善は歪んでいる、これを忘れないようにしなければならない。

排斥する思いが出たなら、その自分を恥じなければ。

自らを肯定するためにも、他の存在を肯定するということを厭うな。

小石がある。
小石を見るわたしがいる。
小石があることを否定した瞬間、
小石を見ることで存在が証明されていたわたしの存在は否定される。
この場合、小石はわたしに対して、わたしが在ることの証明をしてくれている。

アリバイは自分では作れないんだよ。

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