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いのちの無意味。

いのちはどこから来たのか。
そのいのちをあたえられて生きているこの身には、どういう意味があるのか。
しかもそのいのちは生死するいのちである。
このいのちの意味を問うことが人間の究極の問題といえる。

            狐野秀存


いま車載しているカーナビは、その日に最初にエンジンを掛けた際に、

「○月○日、今日は〇〇の日です」

と、教えてくれる。

「○月○日、今日は〇〇の日です」
「だからなんだよ」
と、ニヤついて突っ込んだりして、朝、家を出る事が結構ある。
ところが、これが祝日だと。
「5月5日、今日はこどもの日です」
と・・・。
「ええぇ〜!知っているし、もっと違うの教えてよ」
ってなる。
知りたがりではないと言っているくせに、どうも知りたがりは治らないようだ。

で、今日は、5月18日、5「こ」10「と」8「ば」の日、「ことばの日」らしい。

肝心の「ことばの日」が語呂合わせかいっ!
いやいや、言葉遊びというくらい、言葉は自由で楽しいものであるべきなのだから、「ことばの日」だからこそ敢えて語呂合わせがいいんだよ!

どっちでもいいんだよ!いちいち意味づけしてんじゃねぇよ。

そんなこと言ったら、一から十まで意味付けなんだし、ことばは意味を伝えるものなんだから、ことばの存在否定だろ!
そうだそうだ!意味づけすんなって、ことばで主張して、意味付けしてんのそっちだろ!

ん?それはそれとして、5月18日で「ことばの日」が成り立つなら「ごとば(後鳥羽)の日」もありじゃねぇの?
どうもまだ後鳥羽の日は制定されてないらしい。
べつにどうでもいいけど。
あと、
ファイバーの日・・・ファ(5)イ(1)バー(8)
サロンパスの日・・・コ(5)リを癒や(18)す
てのを主張しているらしい。

なるほどな。
どうでもいいけど、ことばはやっぱおもしろいもんだな、とは思う。

いのちってのもことばだ。

形がないものに形を付ける。
意味がないものに意味づけする。
理由を無理やり作るのがことばの役割だ。

動植物にはいちいちの意味付けはない。

「いのち」という形がないので、生死もない。
誕生して、在るだけで、在るを生きるだけだ。

動植物には死はない。
命という、生という観念もない。
「在る」という事実とそれを維持するという事実だけだろう。
バカにしているわけではない。

人間は「ことば」とともに「いのち」「生死」という観念を持ってしまった。
なんの根拠も裏付けもない形のない状況に、「死」という個々の終点を設けることで、そこに「生」と「命」というものを感じるようになった。
そして、それは潜在意識に刷り込まれている。
けれども、いよいよ人間は「死」をないものにしようと、見ないようにしようと、覆い隠すのに必死だ。
つまり、生もいのちも、年々、日々、存在が薄らいできている。
ないものに無理やり形を付けて、それをないものとしようとする。

動物から差別化して人間というものになって、動物を下に見ながら動物へと帰るような愚策、いまさら戻れないのに戻ろうとしているように思える。

いのちを受け止めるのは、死を大事にすること、そこから生を一大事と受け止めることが必要だと思う。

死は必然であり、生は偶然である。
死は当り前であり、生は奇跡である。

必然が、当り前が在るゆえに、偶然と奇跡に感謝ができる。

「死」を覆い隠すような社会環境、「死」を見ないようにするような生活・政策・教育をもう一度考え直さなければ、ますますわれわれの「生」「いのち」は薄らいでいく。

人間には、感性で、「いのち」を無意味にいただくことはいまさらできないのだから。

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