鬼はオレ。福もオレ。どっちもあって悩むのもオレ。
私達は関係を生きています。
様々な関係の中で、自分の居場所をいつも探していると言ってもいいと思います。
逆に言えば、いろいろ苦しみ悩んでいるのは実は自分の居場所が決まらないからです。
一楽 真
緊急事態宣言が延長される見通しらしい。
ま、先週から言われていたが、明日発表するとか。
いや、だからなんだということは別にない。
互いにこの苦境を支え合って、凌いでいくしかない。
市井においては牽制の仕合はやめよう。
非難合戦もやめよう。
店開かないとやっていけない、生きていけないくらい追い込まれている人もいるのは確かだ。
それは、金銭的な問題もあるが、先行きへの精神的な恐怖もそうとうあると思う。
恐怖はお互いさまだ。
お互いに恐怖感を持って相対して責め合えば戦争になる。
殺し合いになる。
だから、言葉という、罵詈雑言という武器は捨てよう。
戦の場に居場所はないよ。
一瞬、あるかのような勘違いはできるが、あくまで勘違いだ、幻想だ。
いよいよどこにも居場所がなくなるだけだ。
精神的、宗教的な物言いで言えば、自分の中に居場所を、と言いたいところだが、そんな難しいことができれば苦労しないし、やっぱ人間である以上は関係性の中に、たがいの間に居場所を探すしかない。
それなら仲良くとまではいかないにしても、せめて争いは極力起こさないように努めたい。
そこまで気を付けていても、ちょっとした言葉のアヤで、ボタンの掛け違いで、勘違いで、空気で、なんとなく、争いになってしまう、怒りがこみ上げてしまう。
それくらい危ういんだな、わたしは。
だから、努めることは最低限の居場所確保のための足掻きだ。
明日は節分だ。
己の中にある鬼は、都合良く出ていくわけもなく、福が舞い込んでほしいなんてご都合主義の思考もなくなるわけもなく、豆撒きしても片付けるのが面倒なだけなので(真宗の寺院では基本、人を寄せて節分の豆まきをするところはない。ただ、土地柄、風習文化でするところはある)やる気もしない。
あの豆、好きだから、買って食べることはあるし、人がくれるとなれば喜んでもらっちゃうけど。
学生時代、豆まこう!って、配られた豆をその場でボリボリひたすら食べて、引かれたこともある。
だから豆まきの風習は嫌いではない。
ちょいとカッコを付けて言えば、福にだけではなく、鬼にも居場所を作ってやれるくらいに成りたい、自分の中に。
おそらく鬼こそが自分自身の根っこにある自我ってもんだろうから、そいつの居場所をなくすということは、自分の居場所を放棄することでしかない。
福なんてもんも、結局は自我。欲。思い通りにしたいという執着。
鬼に思える人がいたら、その人をよく見てみる。
そうするとそこに自分が見えることがある。
鬼であると思えるのは、その鬼の所業の残酷さを身を以て知っているから、その種があるからだろう。
いま、居場所を探している人に言えるコトバは、
「あなたがいる。それがわたしの居場所です。お互いさまで活きませんか」
って感じかな。
ムカつくあいつも、腐れたやつだと憎むあいつも、存在否定はしたくない。
お互いさまであるならば、向こうからみれば、わたしの存在が否定される。
耐えられないね、そんな強く成れないから。
他の存在否定は自分の存在否定。
だからさ、肯定しなくていいけど、あるものはある、しようがないじゃない。
そこにんところからものの存在の在り方を考えたい。
そうすると・・・。
いよいよ否定しそうな自分が見える。。。
やばいね。
居場所ないわけだわさ。
ま、こんな事を考えさせてくれるのも、存在を否定せずにはおれない、だいっ嫌いなやつがいるからこそなんだろう。
ムカつけばムカつくほど、嫌えば嫌うほど、そやつの存在を肯定しているんだな、知らないうちに。
矛盾だらけだぜ、オイラの人生。