無責任になってみよう
若い人は周囲のできごとにたいして、じつはその人の責任ではないのに責任を感じてしまうことがよくある。
皮肉なことに、だれよりも許す必要がある相手は自分自身である。
自分がやったことにたいしても、やらなかったことにたいしても、自分を許さなければならない。
エリザベス・キューブラー・ロス
許すということは、甘やかすことではない。
知らんふりいを決め込むことでも、なかったことにすることでもない。
そのことに対して向き合って、真実を突きつけられても、
悔いることになろうが、涙を流す状況におかれようが
眼そむけず、事実を受け止めることができるようになることだ。
歳を取ると、周囲の出来事に対して鈍感になる。
事実の把握ができなくなる。
ゆえに、責任を感じることがなくなる。
と、ここまで書いていて
「責任」という言葉が使いづらくなったなと感じる。
社会が責任を取りたくなく
年寄りが、会社が、政治が、国が責任を回避したいがために「自己責任」を押し付ける世の中になってしまった。
自分もそうしてしまった責任がある。
「世の中ばっか恨んでないで、テメェの責任でやれ!」
みたいなことを言いまくっていた。
それが全部が全部悪いとは言わない。
当然、一人一人が責任を持つことは大事だが、立場が上のものが立場が下のものに対して言うことではない。
今は逆転している。
政治、官僚の世界の責任を下のものに回す蜥蜴の尻尾切りてき責任の取らせ方が、あたり前のように社会に蔓延していて、あたり前のようにそれを押し付ける。
こんな社会だと、責任という言葉そのものが、人権侵害・差別・弱者排斥に繋がりかねない。
変な時代だぜ。
で、責任論は抜きにして、自分を許すことは大事だ。
自分を許すことができれば、人を許すこともできるようになる。
ある人がある事をやった。
その場合、人と事は出来得る限り切り離していきたい。
罪を憎んで人を憎まず、という言葉もあるが、やらかした事象の問題は問題として、きちっと受け止めねばならないし、直せるものなら直さねばならないし、取り返しのつかないものならそれはひたすら反省するしかない。
そこで問題になるのは、それをした人だ。
基本、我々は、最終的に事象よりもそれをなした人こそが「悪の元凶」だと考えがちだということだ。
それではあまりにも殺伐とした関係でしかない。
事象云々よりも人間同士の憎しみ合いに転嫁されてしまう。
イコール、その人間がいなくなれば二度とそのような間違いはなくなる、という安直な考えに落ち着く。
賢いのだかバカなのだか。
戦争が無くならないはずだ。
自らを許すということは、他を許すことだ。
事象は事象として一生悔い続けるが、ここにわたしが在ることは大事なことだと感謝することだ。
そうした繋がりが、互いを監視し合うような汲々とした社会を住みやすい社会へと変えていく。
まずは自分を許してみよう。
どうすれば許せるのかを考えてみよう。
許すってどういうことなのかを模索してみよう。
てか
許されなければならないようなことをオレはきっと今でもしちゃっているんだろうな。
それですら分からなくなってきている。
反省するべき、猛省するべき、慚愧するべき出来事を見逃してしまっていることのほうが、どうやらわたし自身にとっては問題のようだ。