他者にエゴを感じるのもエゴ。
人間は白紙の状態でまわりから提供されるものをうけ入れるわけではなく、多少とも主体的にそれらのものから自分に最もぴったりするものをえらびとる。
それ自体どんなに立派な世界観や思想であっても、うけ入れるひとの心のなかにそれが必然性をもってくみこまれ、心の構造それ自体をつくりあげる決定因子となり、もののみかた、というより、みえかたを変えるようにならなければ、それは借りものにすぎない。
神谷美恵子
今日の言葉で、特に大事なのは「自分に最もぴったりするものをえらびとる」という事実だと思う。
これを外すと、たとえ「立派な世界観や思想」をもって「必然性をもってくみこまれ、心の構造それ自体をつくりあげ」たとしても、自己欺瞞、視野狭窄なものの見方しかできない。
常に自分の選びが先にあり、その瞬間に多くのものを見落とし、結局は自分の見方のうちでの見え方しか知らないで過ごすことになる。
自分の見え方、捉え方に疑問符を付けることを忘れてはならない。
自分の考えに、見え方に疑問符をつけると、面倒くさいけど、面白い。
答えが出ないわけだし、いつまで経っても、飽きる必要がなくなる。
そりゃ飽きるよ。
飽きて止めてみるんだけど、いつまでも気にかかっている。
で、いつのまにかまた、どうにかならんものか、とそのことに引きづられる。
その引き摺られていくことが、自分を生きることなのかな、と、そんなことを思ってみたりもする。
だから、言葉を選ぶ際もだが、本を読んでいても引っかかるのは、自分の考え方を翻してくれるような言葉やストーリが多い。
で、その言葉やストーリーに「翻させられたわたし」というのも、実はそこに「わたしの思惑」が働いている。
選びは必ず無意識の上にでも働いている。
選びのない生活は人間には営めない。
どこまで自分の「エゴ」を見つめられるかどうかだ。
「エゴ」が悪いということではない。
その「エゴ」がいい答えを呼ぶこともあれば、人を傷つけることもある。
わたしの見ているもの、感ずること、そこから受ける思い、願い、それには「エゴ」が必ず付随するという認識さえ持っていればいい。
「エゴ」をなくすとか、どうこうするという話ではない。
「エゴ」はなくせない。
「エゴ』をなくせるという思いそのものが「エゴ」なのかもしれない。
そして、「エゴ」を認識しているという感覚それも「エゴ」でしかない。
白紙の状態での選びはない。