笑ってよボクのために
苦楽を超えたところという意味が極楽でございます。
私たちは苦しい状態にありましても、愚痴を言うという形で我を失っている。
楽しい状態にあっても、その楽しみの中に我を忘れて、うかうかと過ごす。
苦しみといい、楽しみといい、いずれにしても我を忘れた在り方というものを出ていない。
そうした我々の中に、我をよびもどす世界として極楽という言葉がある。
宮城顗
ついに彼岸花が咲いた。
今年の夏はハンパなく暑かったし、残暑もいつまでも続いたので、開花は遅いだろうなと思っていた。
毎年彼岸花が咲く場所に、いつまでもそれらしき気配がなかった。
ところが二日前、そこを見たらいきなり茎がぐうぃ〜んって出てているじゃないの。
彼岸花の茎の成長というか、出現には毎年驚かされる。
昨日まではまっさらな感じだったのに〜〜〜!!!って。
まるで竹の成長のようだ。
気がつくと予定の丈まで伸びている。
そして、蕾も用意されている。
なんなんだろう。
うちの寺の庭にも植えてみようかな、と密かに画策中。
小学校の時でもやらなかった、観測日記をつけてみたくなった😆
そして、さっそくカメラで撮ってみるが、一年のブランクがあるため、アングルも決まらないし、絞りも決まらないし、まったくダメだ😅
これから毎日のように彼岸花を、あぁでもない、こうでもない、と撮ることになり、結局、また今年も駄目だったなぁ〜、となるか、やった!この一枚だけでも撮れたので良かった!となるか、楽しみといやぁ楽しみ。
どちらに転んでも作品の出来なんてしれているからいいのだ。
真夏の真緑で、なにを撮ったらいいの!という状態から救ってくれるのだから。
紅葉までの一時期、彼岸花・オシロイバナ・カリガネソウと秋の花に救われる気分だぜい😆
それにしても我を忘れて愚痴る、我を忘れて喜ぶ、ってどんな感じなのだろうと思ってしまう。
これ、多分わからないと思う。
だって、そのときは見えていないのだから。
どれだけ周りから見ても幸せそうで、周りの人までも気分よくさせていたとしても。
どれだけ周りから見て哀れで情けなく、周りの人までも不快にさせていたとしても。
自分では気づかない。
自分ではわからない。
自分に酔っている、自分で気持ちよさが、楽しさがわかっている状態ということは、そこには我があるのだから、喜んでいる自分をどこかで俯瞰している、冷めてみている自分があるのだよね。
「もう少し喜んでも大丈夫かな?」「調子に乗りすぎかな?」
そんな感じ。
たまに街で子どもを抱きながら歩いているお母さんが、どこか目的地に向かっているだけなのだろうが、すごく幸せそうに微笑んでいる姿を見かける。
多分ご本人はそんな幸せそうな笑顔をしているなんて気づいてないと思う。
そうした姿を見ると、こちらまで幸せな気分になるし、自然と笑顔になれる。
(見せないよ、そんな笑顔、誰にも!だって、こんなオヤジが母子を見て笑っていたら気持ち悪いだけだろうし、不気味なだけでしょ。そっとよそっと。周りにだれもいないな、と確認してから)
無条件なんだろうなと思う。
理由も意味もなく、ただ幸せなんだろうなと思う。
その瞬間は、言えば、子どもが可愛いから、とか、子どもがいることがとか、それすらも関係なく、ただ幸せなんだと思う。
ありゃすごいわ。
そしてこうして文字にしてみたり
人に話してみたりすると
自分がその母親の状況を、どうあがいても理屈をつけてでしか頭に描けないことにも気づかせてくれる。
なんでもかんでも理由、理屈をつけて
なんでもかんでもわかろうとする。
そこから抜け出せねぇなぁ。
答えが欲しくてしようがない。
でもさ、一瞬でもいいんだよね
母子の例を上げたけどさ
なんか無条件での笑顔を見ることってしょっちゅうではないけど、たまにあるよ。
なんか知らないけど幸せそうなオヤジとか。
笑いたくなるほど一生懸命な若者とか。
この場合は笑顔ではないけど、なんていうのかな、一生懸命さが身体らにじみ出ていて幸せそうに見えちゃんだよね。
そんな場面に出会えた瞬間、その刹那、もしかしたら自分も一瞬だけど無意識にいい顔しているかもしれない。
ほんとうの幸せは、他者をも幸せにする。