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いつも爪は夜切っている。

人はだれでも、幸せに生きたいと願っている。
幸せであることの基本は、思い通りに生きられることだ、と考える。
これを、仏教では「人知の闇」という。
私たちの〈いのち〉は縁起的存在である以上、自分の思い通りに生きられることはありえない。
そのことに目覚めないがゆえに、無知の闇のなかで幸せを求めて苦悩するのである。

            小川一乘


ここでいう「縁起」とは、「縁起が良い」「縁起が悪い」ということとは違う。

だいたい縁起に良いも悪いもない。

縁起とは、わたしをわたしたらしめている一切合財であり、現状を現状たらしめている一切合財だ。

だから、良いも悪いもない。

いまここ。

それに良い悪いを付けるのは、結局、何から何まで自分の思い通りにしたいというスケベ根性でしかない。

無責任根性とも言える。

自分の思い通りにならないと、その原因がわからないと、縁起が悪い。
「これこれこう縁起の悪いことをしてしまったので結果が悪い方に出た。だから、わたしの努力や実力や社会システムのせいではなく、北枕で寝たからだ」
なんて、言い訳にも使う。
事前に縁起の悪いことをしておけば、こと終えた折には、上手く行けばそんなことは忘れ去り、失敗したらば「縁起」のせいにする。

そんな、ご都合主義で縁起を使っているが、そんな意味ではもともとない。

宿業とか、因縁とかも同じだ。

ああすれぼこうなって、こうすればああなる、そんなマニュアル的なもんじゃない、わたしがここにあるということは。

これこれこうすることが良かろうと思い、それがじつは思い過ごしであり、どうにもこうにもならないとわかった時に、どこでどうまちがえたのか、どうすれば同じ過ちをせずに済むのかを悩むことはもちろん大事だし、それをしなくなったら人間の社会は機能しなくなる。

縁起だ因縁だ宿業だに逃げれば思考は停止する。

地球のいまここがこんなのは、我々人間が連綿と犯してきたミスによるところが大である。
科学、文明、医学、戦争、紛争、環境整備、思想、哲学、宗教、政治、とてつもないミスを犯してきたのは事実として受け止める必要がるだろう。

ただそれをも含めて、わたしはわたしとしてここにあることができている。

ミスもわたしの大事と受け止めて、それ故に見えてくる「人知の闇」を問として、いまを生きることが人と生まれたことの宿題のように思う。

縁起に良し悪しをつけた時、そんな思いで神仏に手を合わせた時、スケベな自分をそこに見てみよう。

スケベな自分、これまた良い悪いじゃない。

そういう自分なんだな、ってだけだ。

それがいいんだ、ホッとするんだなぁ〜。

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