偽善or偽悪?
生かされているという言葉が嫌いだ
「生かされている」と口では言っていても、そう思えない自分があることをしっかり知って、それを確保し、大切に温存していおくべきなのだ。
武田定光
今日は、久々に都心に出る。
約3ヶ月ぶり。
都心を通ることはあっても、都心部で時間を過ごすことはすっかりなくなったな。
こういう状況になる前から徐々に減ってきていたが、いよいよ東京の外れで過ごすことが多くなってきている。
そのほうが楽だし、べつだん都心が好きなわけでもないし、人混みも嫌いだし、問題はない。
ただ、たまに出るとなると、仕事であっても、なんか心躍っている自分がどこかにいるのも確かだ。
毎日のように通わなければならないと成ると面倒だし、ウザい。
かといって、もう二度とあんな場所に行くものかとも思えんし、東海道新幹線に乗って、夜、西の方から戻ってきたりすると、有楽町・東京のネオン、東京タワーを観て、ホッとする自分もちゃんと確保している。
勝手なもんだ。
自分のほんとうの気持ちってのがまったくわからんし、信用できん。
いつも揺れているね。
あっちこっち。
それが面白いとも思う。
なんらかを感じ、考え、言葉・意識・行動で表現すればするほどわからなくなる。
他人のためになんかをしたとする。
それがその人の為になったな、なんて思った瞬間に「偽善」を感じる。
「人の為と並べて書いたら偽という字になりました」
なんて言葉を思い出すと、ますますいい子になろうとしている「偽善」の上塗が見える。
オレは本当にダメだな、とまでは思わないが、この「note」に書いているような自己批判をすると、そこに「偽悪」が見える。
「わたしは本当に碌でもないのです」なんて思ってもいない、実感していないことをいかにも感じてる体のごまかしが見える。
「偽悪」によって「善」になろうとするいやらしさが必ずある。
だいたい「偽善」と「偽悪」の間を行ったり来たりしているような気もする。
「生かされているわたし」なんて感じるときもだが、そう感じた自分をいかにも否定しているときなんていよいよ気持ち悪い「わかった風なわたし」がいる。
ほんとどこにいるのかがわからん。
たぶん「偽善者」であるときも、「偽悪者」であるときも、いっちゃえばわたしであり、まそんなもんなんだろう。
「偽善」も「偽悪」もしっかり兼ね備えているってことなのかな。
こうして、自分を語ってみて、わかろうとしている、そんな自分も偽善的であり、偽悪的でもある、気持ち悪い自分が見える。
で、そういう自分が見えると語っている瞬間また気持ち悪さを感じる。
堂々巡り、無限ループだな。
こりゃ、飽きねぇわな。