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花無心招蝶 蝶無心尋花

我々は生きる為に食うという、しかしこの生きる為というのは後より加えたる説明である。
我々の食欲はかかる理由より起ったのではない。
小児が始めて乳をのむのもかかる理由の為ではない、ただ飲む為に飲むのである。

            西田幾多郎


今年も桜が開花しました。

昨日の朝、9時ころ時点ではまだ石神井公園の桜は開花していなかったので、開花したのはそれ以降になります、わたしのいつもの撮影散歩ルートにある石神井公園の桜は。
因みに、車でっ通った際には一昨日には、石神井公園と練馬高野台を結ぶ南田中団地地区の石神井川沿いの桜は開花していました。

ま、毎年、わたくし的開花宣言は、撮影散歩ルートでカメラに収めてですので、今日ということす。

桜だけではなく、コブシにしても、彼岸花にしても、ほかの草木花にしても、時期が来ると当り前に咲き、当り前に散っていく。

そこに理由だの理屈だの、哀愁だの、美だの、何やかやを付けて楽しむのは人間だけだろう。
勝手に人間が価値をつけて、価値をつけるために理由を押し付けて、不思議まで感じて、楽しんでいるわけだ。

花は当り前に咲いて、当り前に散る。
理由も理屈もない。
そこに集まる虫や鳥は本能で生き延びるために花から蜜をもらい、その足や羽に花粉を付け運ぶ。受粉に協力する。共存を無意識にしている姿だ。
と、意味を付けたがるのも人間だ。
別に、花は虫や鳥のために咲くわけでもない。
咲く時が来たから咲いただけだ。
いわば細胞が体内で分裂をしているようなもんだ。
あえて意味を付けるのであれば、分裂する時が来たから分裂しただけ。
咲く時が来たから咲いただけ。
受粉しようがしまいが、花は意図していない。
散る時が来れば散る。
花が咲く木も、枯れる時がくれば枯れる。

哀愁も、郷愁も、感傷も、美も、無常観も入る余地は本来ない。

でも、感じてしまう。

結局は、ものが解っている自分に、自分の美意識に、自分の感性に、酔いたいのだな。

花無心招蝶 蝶無心尋花

花 無心にして蝶を招き      
蝶 無心にして花を尋ぬ    
花 開く時、蝶来り  
蝶 来る時、花開く   

こうした詩を読んで、共感し、解った気になる自分が好きで好きでしようがないんだな。

無意味には生きることはできそうもない。

「無」になると言いながら、「無心」という自分なりの「無心」の形を造り上げて、それに近づこうとするのが関の山だ。
結局は「無心」という形が現存し、そのいつわりの「無心」に酔うことができるかどうかでしかない。
ま、それすらもできそうもないが。
また、それを目指す気もない。

開き直りではない。

わたしは花や蝶のようには成れない、という現実くらいは受け止めていたい。

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