わたしは思案橋の上にいるみたい。
いつまで生きたって私たちは、「いま」しか生きられないでしょう。
どんなに考えたって、明日のことを考えている「いま」なんだ。昨日のことを考えている「いま」なんだ。
「いま」というところから一度も、人間というものは動いたことはないんですよ。
武田定光
なんだかんだと予定が入ってきて、何もなければ、本当に何もしない、買い物にもできれば行きたくない、そんな自分がそれなりに活動させてもらっている。
仕事もだが、私用でも。
ま、用とも言えないような用なのだが。
わたしにとっては、日常生活の必需品を買いにでるだけでもとんでもなく面倒で、かったるくて、なるべく行きたくない、そんな労働なのだ。
だから、マジで、切羽詰まるまでは食材の買い物すらいかない。
米にしても、おかずの材料になるようなものにしても。
気がつくと、なにも食べるものが、本当にない時もあり、仕方無しに弁当屋に行ったりもする。
ひどい時は、一日、二日食わなくても死なねぇだろ、と、寝てしまったりするときもあったりする。
空腹よりも、かったるさが勝つ時。
で、翌日、眼が覚めると、どこかふらつくようになってきた、最近は、そんなことをすると。
歳を取ると、若い頃よりも、ちゃんと食事を摂らないと、即座に影響が来るようになるのだな、という学びだけにはなっている。
そんなわたしが、仕事以外で、仕事の終わったあと、仕事を早引けさせてもらって、買い物に出たり、知り合いに会ったりする予定が結構入ってきている。
昨日も、帰宅したのは10時(夜のね)過ぎだった。
コロナ禍のおかげで、いっとき、公園の密を避けたいがために日の出前から撮影散歩に出る日々を過ごしていたお陰で、朝起きる時間は通常に既に戻っているのに、寝る時間は9時でも寝れちゃう、眠くなっちゃう体になってしまったわたしにとって夜の10時の帰宅は不良な時間もいいところだ。
もっと遅くに帰ることになる日もすでに何日か予定されている。
予定があるのは嬉しいのだが、あまりにハードだときついぜベイベー、って、気分が一瞬萎えそうになる、予定表を見て。
逆に、あれもある、これもある、このへんでもしかしたらああなるかも、って、ワクワクもある。
先の見通しが立ってもいないのだが、予定が埋まっていくと先の見通しがなんとなく立っているような気もする。
その予定のお陰で、先の先の見通しは危うく感じ不安になったりもする。
結局は先しか見えていない現状、振り返る余裕もなく、足元見る時間もなく、ひたすら先見て、走ることはできないが歩いている状態は、不安定極まりないのだろう。
それでも、それがなければ「ここ」を見られるかと言うと、そんなわけもなく、ただ過去を悔い、過去を懐かしみ、懐古主義に浸りながら無為に過ごしそうだ。
でも、実のところは、未来の予定を見ているだけ、通過してきたことを見ているだけで、未来でも過去でもなく、「ここ」に、「いま」にあるのだな。
未来の悩みではなく今の悩みだし、過去の後悔ではなく今の後悔なんだろう。
いろいろな方が同様のことを仰っているようだが、わたしが最初にこうした旨の言葉を聞いたのは、キリスト教カトリックのシスター渡辺和子さんが仰られたときだ。
「今日は私にとってこれ以上ない若い日なんです」
という言葉。
今日は、今。
今一番若いし、一番年食っている。
これは幼児でも同じ。
結局、今しかないんだな。
これはべつに卑下しているわけではないし、ここをしっかりせにゃならん!今でしょ!、なんて先を考えたポジティブ論でもない。
どっちに転んでも、どっちにいようが、関係ない。
いま、ただ、ここにいる。
それだけのことで何の意味もない。
時間ってもんは、あってないようなもんだ。
捉え方次第でいくらでも変わるようだ。
これも事実。
じゃ、良い方へ捉えられるかと言えば、そんな簡単にはいかない。
時間に縛られている以上は、先見て不安を、過去に後悔を持たなければならない。
さぁてと。
こんなにもオイラを縛っているものがあるのだし、時間・付き合い・仕事・遊び・自我・欲etc...、それを丹念にほどいていくしかないかのぉ。
縛られるの嫌いだ、と、一応、公言している限りは、ほどくことをせにゃな。
???
「せにゃな」って、ほどくどころか、また「縛り」が増えてんじゃん!
ほんと、どうすりゃいいのさ思案橋だぜよ。