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一年の長さは確かに変わった。

こうしてすぎていったのは、たかだか数か月のことでした。
でもモモにとっては、これまでになく長い時間でした。
ほんとうの時間というものは、時計やカレンダーではかれるものではないのです。

    ミヒャエル・エンデ(『モモ 』より)


『モモ』を読み返した。

何度目だろう?

もしかしたら、一番、読み返している本かもしれない。
紙の本自体は何処かに埋もれてしまっている、10年くらい前から。
で、たまたま、AMAZONで、Kindleで読める「おすすめの本」のところに上がってきた。
え?「Kindle」で読めるんだ!
と、なんの躊躇もなく即買いして、自分のKindleに送信して読みだした。

毎回のことだが、特に、前回読んでから10年以上の歳月がたち、いよいよ年をとってきて読むと、ほんとに「ほんとうの時間」を生きてないなぁ、と思わさせられる。

「灰色の男」と自分が重なる。
でも、それよりも灰色の男に支配されている人間のほうがより自分に近い、とも思う。

「灰色の男」はやはりアイツラだな、と、顔が浮かぶ。
小泉純一郎・安倍晋三・竹中平蔵・菅義偉・麻生太郎etc...

現在の日本社会は思いっきり「灰色の男たち」に支配され、思い通りにやられまくりの思考停止の人間だらけになってしまっている。

1973年の作品だから、およそ50年前だ。

50年前にすでにエンデは、時間に縛られ、いいように振り回され、気づく前にものを考えなく成る社会に対しての問題提起をしていた。

そう考えると、好き嫌いはおいておいて、欧米の国々はなんだかんだ「灰色の男」に支配されまいともがいてきているよね。
日本人はものの見事に支配されてしまった。

少なくとも50年間、発展という名の衰退を、人間喪失をひたすら続けてきたのだろうな。

自分自身がおもいっきり「時計の時間」にはまり込み、その通りにいくことが良いことだと思い込みがちだ。
それが「全般的に悪い」とは言えない自分もいるし。
少なくても仕事は時間通りが基本必要だし、と、言い訳をしたい自分もちゃんと用意している。
完全にやられているな。

人間だから当然時間に支配されるのは致し方がない。
時間という観念自体が本来は意味がないのだし、人間が勝手に作り出したもんだし。
いや、「ほんとうの時間」はあったのだろうが、それは人間にはわからない。
だからわかりたくて「時間」というもの、「暦」というものを作り上げたのだろう。
こいつには本当に助けられているから、月や太陽や星、海や山や川や草木、気候や風土や寒暖で、一年・ひと月・一日・一時間・一秒というものを作り上げてくれた方々には感謝しかないのだが、それとこれとは別で、そいつがオマエにとっての「ほんとう」になってしまってやしませんか?、という問いかけに気付かされる、「ほんとうの時間」が二の次・三の次で、時計に悩まされ過ぎの自分がずっといるよなぁ、って。
できればだけど、少しだけでも「ほんとうの時間」の方に比重がいくように暮らしたいものだ。

年を取れば取るほどせっかちになってきている。
時の流れに着いていくのが必死なのだが、それならば、こんな歳だしもう時の流れに置いていかれてもいいや、とはなれない。
歳を取れば取るほど、本当に置いていかれたら絶対に追いつけない!、という恐怖心から、遅れるわけにはいかないと必死になっているようだ。

そういやぁ〜、最近、とんと、悠々自適な年寄って見かけなくなったもんなぁ。

自分がガキの頃は、今から考えると「悠々自適」な年寄りがけっこういた気がする。
金があるとかないとかではない。
たいていは、どちらかと言えば貧乏な部類に入るような街場のオジイやオバア。
でも、全く焦ることなく、着飾ることなく、若ぶることなく、おっかない顔してると思えばいきなりいい笑顔見せるような、そんな年寄をけっこう眼にしたもんだな。

いまさらあそこに戻れれば、なんて思いはまったくない。
この「灰色の街」と化した日本は、改めて、「ほんとうの時間」を大事にする社会を構築しようとも足掻かねばならないのではないかな、とは思う。

まずは、未だに遊びが下手な日本人は、「ほんとうのアフター5」「ほんとうの余暇」「ほんとうの休日」の過ごし方を考えることから始めるのもいいんじゃないかな。

休日だから何処かにいかなきゃ、何かをしなきゃ、ってのもそろそろやめてね。

そんな他人事ではなくて、さてはて、オレはどないしよ。

どしたら良いのか。

ちょこっとまた今回も考えてみよう。

前も考えてみようとしてほったらかしだったし、今回は、せめて2〜3日は考えてみるかな。

って、「2〜3日」って切るところで、すでに時間に縛られてるし。

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