時をかけるオッサン
遠い将来について考えると、不安になる。
でも、近い将来の予定を考えるのは、楽しい。
しかし、いま目の前にある現実について考えると、これがまた非常に不安になる。
誉田哲也
時間という概念に縛られて生きているのが人間。
一分は六十秒 一時間は六十分
一日は二十四時間 一年は三百六十五日
人間は、時間というものを持った時から、過去と未来を生きるようになった。
陣内智則さんの命について蝉と対話するというコントを以前見た。
「何のために生きてるんかな」と自暴自棄になっている日々をむなしく生きているという設定の陣内さんに、蝉が「おまえは俺がどれだけ生きるか知っているか?(羽化後)七日だぞ」と話しかけてから、蝉が死ぬまでをコントにしていたのだが、それを笑いながら観ていて、
「でも、蝉は何日生きるだの、後どれくらい生きられるだの、本当は関係ないんだよなぁ。ただ、今を生きているだけなんだよなぁ」と、考えさせられた。
人間だけだよなぁ、明日を生きているの、と。
でも、時間という概念がなければ生活が成り立たなくなっているが現実。
そんなことはない。私は年齢とか、日にちとか、気にしない。時間に無頓着だから!と、いう方もいるかもしれないが、少なくとも社会の機構がこの時間というもので成り立っているので、そこに生きる以上は時間は無視できない。流通というものひとつを考えてみても、その主軸となる飛行機や電車や船は、緻密なダイヤというものが編まれて、それに沿って出発時間や航路などが組まれているらしいし、その時間が少しでもずれただけで大事故に繋がりかねない。そうした流通機関が整っているのがいまの社会であり、それによって、私たちの生活が成り立っているのは事実だ。
便利さを求めれば求めるほど、時間というものが大事になってくる。
昔は、時計なんて、一月もすれば数分遅れたり進んだりするもの、ですんでいたが、私が高校生くらいの頃には「月差プラスマイナス数秒」なんて時計が登場し、いまでは「電子時計」なんて月差どころか全くくるいがない時計までる。
そして、私自身が、時間に縛られたくない、と言いながら、その電子時計を好んで選んでいる。
で、、時々それが合っているかどうかを携帯やパソコンの時間とずれはないかを確認してたりして・・・完全に縛られている。
生活に潤い、社会にゆとり、といいながら、面白いもので、時間的に追い込まれて、生活も社会もギスギスしてきている。しょっちゅう私は時間を気にしてイライラしている日々を過ごしている。
それだけ時間というものが私の生活を支配している。
ちょっと仏教の話。
南無阿弥陀仏というのは「無量寿(むりょうじゅ)」という意味。これは、「量れない時間」、「量り知れない命」ということ。時間という概念をぶち壊してくれるのが南無阿弥陀仏。
ひとりひとりの年齢は現在の社会通念上では誕生してからいまこのときまで、10歳であったり、35歳であったり、80才であったり。
だからなんだよ?でしょ。そう、だからなんだ、てことでしかない。
「おまえさんがそこにあるのは、そんな人知で量れるような浅はかなもんじゃないよ」というのが「南無阿弥陀仏」。
地球上に生物が誕生したのは約三十八億年前といわれていて、そこからいま、私が私としてあるためにいただいているこの時まで、一瞬たりとも命は耐えることなく、休むことなく連続している。三十八億年が作り出している今を生きている、地球上に命が誕生したときから考えただけでも。
でもそれが始まりではない。
宇宙の始まり。その前には?そう考えると、時間的なことだけでも、私のこのいただいている命というものは、考えも及ばないくらいとんでもない今なんだなと。
時間的なことでいえば百二十億だの四十六億だの三十八億だのと大まかでもいえるけど、氷河期があったり、大地震があったり、隕石がぶつかったり、大爆発があったり、コロナ禍があったり、そんな中で、海からたまたま陸上に上がったり、とんでもない大事件が起きてもなお一瞬たりとも絶え間なく繋がっているのが今。
私たち人間は時間という概念を持ってしまった。
そこで自分のことを過去と未来で観るようになった。そして今(足元)をみることが困難になった。
でも、そのおかげで、今ここにあることが奇跡なのだと、また、この命が限りあるものなのだということを知ることも出来たのも事実だ。
私が私としてあることは今この時だけなのだと知ることも出来た。
それでも、今を生きることが出来ず、過去と未来という時間にさいなまれ、自身を見失っているのが事実。
時間は人間が作り出した観念であり、人間のご都合主義の妄想であり、人間を悩ます源である。
でも、それがあることで人間という観念も成立している。
人間である以上は「時間」は無視できない。