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笑うのが苦手なんだな、実は。

人間みな、それぞれに幸せを願って暮らしてきているのですが、しかもその結果が、いよいよ自己を失い、不幸になってきているということもまた、私たちの在り方、生き方そのものの中にかかえられている矛盾によることであります。

            宮城顗


いま、自分は「幸せ」ってやつを願っているのだろうか?

それすらないのではないか。

目先の欲望を満たすことに必死で、幸せという大局的な思考がないような気がする。

幸せは不幸であればこそ感じられると思っていたが、不幸のどん底の人に幸せを願うなんて余裕なんてないのではないだろうか。
いや、自分が不幸だというのではない。
それすらもない。
幸せと聞いて、ピンとこない自分がいて、いったい幸せってなんだ?、と思えて、そんな事に気づいた。

幸せを願える人は、やはりそれなりの余裕がなくては願えないだろう。
時間的にも精神的にも金銭的にも。
「あぁ〜幸せなのかもしれないなぁ」くらい思えるゆとりがないと、幸せなんてものは願えない、そんなうがった見方をしてしまう自分が居るんだ。

世界平和とか、社会の無差別化、本当の意味でのバリアフリー、そうしたものを大事だ、そうなってほしい、いやそうするべきなんだ、と、そんな思いを起こすことはあるが、それが、イコール幸せを願っている、というわけではない気がする。

こう書いたら、なんでそれが幸せを願うことではないと思える自分なんだろうと考える。
つまり、外側の人間でしかないからなんだなと。
世界平和も差別撤廃もバリアフリーも、わたしにとっては他人事にしかなっていないのだと。
実際は違う。
全て自分に関わってくる大事だ。

理屈ではわかるのだが、実感していないのだ。

だからこそ、幸せと思えない。

幸せを願えないでいるのだなと気付かされる。

つまり自分の人生なのに、他人事でしか生きていないということだ。

他人には言えるのに、「ひとりひとり、自分の人生の主役であり、脇役にもスッタッフにも成りたくても成れないんだよ」なんてことを。

言っている本人は観客を決め込んでいる。

これじゃいけないなぁ。

幸せを願うな、みたく書くこともある。
ここを幸せと思えなければ、どこへ行こうが、誰といようが、何をしようが、何を取得できようが、幸せにはなれない。
幸せを願う前にここを幸せであるといただけ。
こんな言い方じゃないけど、こんなようなことを知った顔して言うこともある。
でも、幸せを願えない奴に、ここを幸せだと受け止めることはできない。
幸せってもんに恋い焦がれて、不満たらたらで生きるってのも問題だが、幸せを願えないような自分なんかよりは人間としてマシなのかもしれない。

卑下ではない。

ここまで書いていて、また思いが変わってきた。
やはり、不幸にあることを実感している人は、「願う」という余裕はないかもしれないが、「幸せ」というものがあまりにも遠くにありすぎ、まずは目の前の不幸をどうにかこうにかすることで手一杯かもしれないが、そんな中で、ふと「幸せ」を感じる瞬間、そこまでいかなくても、「なんでこんなに不幸なんだ、幸せってなんだ」と思いをそこへ運ぶ瞬間もあるのだろう。
つまり理屈でなく、幸不幸を実感する瞬間があるのじゃないかな。

そう考えると自分にはそれもない。

ともかく、幸せってもんがマジでわからないようだ。

じゃ不幸なのかというと、そんなこともない。

堂々めぐりの思考。

幸せってもんを必要以上に否定し、自分の思考回路から排除していたような気がする。

少しは判断材料として取り入れることも必要なのかもしれないな。

そしたら、もしかしたら、素直に笑えるようになれるかもしれない。

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