無意識の愛
相手への愛に付帯していたさまざまな条件をすべてとりはらったとき、愛はやすらぎと幸福だけに満たされる。
ところがわたしたちは多くのばあい、いちばん愛する人にたいして、いちばん厳しい条件をつけてしまう。
エリザベス・キューブラ・ロス
あなたのためを思って・・・
これほど胡散臭い言葉はない。
うちにとどめていようが、この言葉には「言うことを聞け」という傲慢と、「裏切りやがって」という怨念が付いてくる。
「都民のためを思っての措置なのに、なんで言う事を聞かない!」
と、苛立ちを見せる都知事や
「国民のために全力を尽くす」
と、何もしない首相のコロナ対策なんてのがいい例だ。
ただこの方々と一般の人々との違いは、都知事も首相もハナから愛情なんてないってことかな。
さて、じゃぁ、自分に当てはめるとどうかというと、まず、自分の「愛」と呼ばれる感情、そこまでもいかないが「助けたい」「力になりたい」なんて感情には、もれなく「条件」がついているようだ。
それは、「ありがとう」の一言でもあればいいんだよ、というとてつもなく傲慢な考えでよく分かる。
何かを人にして、その人のためにしたという意識が働いたときに、そこに感謝というものがないのがムカつく。
それを拒否るなんてあり得ない。
オレがここまで譲歩して思ってやってんのに!
こんな思いはしょっちゅう出てくる。
それでいい思いをしたことはない。
苛つくだけだし、それを万が一言葉にでもしようがものなら、当人に対してでもなく第三者に愚痴るだけでも、怒りに火が付き、いつまでも恨みに思い、それを思い出す度に、その怒りと恨みの場に引き戻され無駄な時間を過ごすことに成る。
そう考えると、イラッ、とくるときを思い起こすと、多くの場合は「してやる・してやった」という意識が働いたときのようだ。
「してやる」をやめればいいのだが、どうもスケベ根性が在る人間には、何かをする時に、「してやる」という根性は原動力でも在るのだからたちが悪い。
「してやる」「しようがねぇなぁ〜」なんて根性から、必要とされている感を感じ取りたくてしようがないんだな。
そいつを感じることで、なんとか生きているのかもしれない。
怖いのよ、もしかしたらぼくは不要?、って感じるのが。
だから、お礼がないとブチ切れるんだな。
ゆがんでんなぁ〜。
いちばん大事な人にはいちばん大事だと思われたい。
だから、余計に要求してしまうんだろうな、「必要としている感」を。
人間に「無償の愛」なんぞ求める気はないし、自らにそんなものがあろうはずがない。
でも、気づかないで働いている愛情、無意識の愛は在ると思う。
なんか今日は意味分かんないけど穏やかに過ごせたなぁ〜、なんて日は、相手も自分も気づかない「無意識の愛」に包まれた日なのかもしれないね。