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わからないから対話が成り立つ。

絶対矛盾的自己同一 西田幾多郎

絶対矛盾的自己同一とは何ですか。
絶対とはいくら考えても及ばないこと。
矛盾とは納得する説明ができないこと。
反対のことをそのままうのみにすること。
自己同一とは、そのような世界があって、そしてそれは私だということ。
全然わからない。
その通りほんとにわからないことを肝に銘じて生きること。

            最首 悟


人間の思考・行動はどのような場合においても矛盾をしている。

それを矛盾と思えないところに人間の生活があり、自分という意識がある。

それが事実だということかな。

自分自身を、矛盾しているなぁ、と思った瞬間の自分は矛盾してはいないところに立つ。
その立ち位置すらもが矛盾である。

生まれてから此の方、どっぷり矛盾の海に打ち沈んでいるので、自らがそこで溺れていることにも、どっぷり浸かっていることにも、矛盾でびしょ濡れなことも、それにさえ気づけない。

こんな理屈自体が、そこに気づけない人間の矛盾の最たるものであろう。

だから、わからない、が大切なんだな。

先日、NHKのEテレで放送中の「バリバラ」(バリアフリー・バラエティ)に開始当初よりレギュラーで出ている玉木幸則さんの著書「トコトン生きるための15問」を買い、今朝方ちらっと出だしだけだが読めた。

玉木さんは仮死状態で生まれ、脳性まひになったそうだ。

まだ出だししか読んではいないが、「障害」「障がい」どちら?、という問いに対しての答えている章を読んだだけなのだが、そのスタンスがいい。

あくまで、「ぼくはこう思う。でも、これが正解というわけではない」というスタンスで書かれ、俗に障害者と言われる人々も健常者と言われる人々も、同じでしょ、何らかの生きづらさを背負っているという意味では、というスタンスでもある。
なんていうのかな、玉木さんの方はバリアを取っ払おう取っ払おうとしてんだけど、こちらがバリアを張って、上から目線で「いやいや、バリアなんて張ってませんよ。共に歩んでまいりましょう」なんておためごかしでいい人ぶって、いい人である自分に酔いしれているだけなのかもしれん。

こんな事を考えさせられた、出だしで、もう。

なんも見えてないよね。

「障害・障がい」問題にしても、本当はどっちでもいいのだろうけど、そうもいかない。じゃ、どっち?となると、どちらとも言えない。
自分の場合は、社会で暮らしている中で、自分自身にバリアがある以上は「障害」かな、くらいしか言えないし、何かを書いたとして、その記述は傷つくので「障がい」に変えて欲しい、と言われれば、別に変える変えないのこだわりすらない。
でも、自分自身が「障害=バリア・差別・分別」を持っていることは間違いない。
そうなると、障害者と言った場合、自分の方に障害があり、自分で相手との間に障害を作り、その障害越しに見てしまう人、ということなのだな。
て、ことはだ、わたしのような性格をしている人間からすれば、ほとんどの人がわたしにとっては障害者になるのか?
ええ?いよいよわからなくなってしまった。

これは、当分どういうことなのか折々で考えていくことになりそうだ。

自己矛盾が絶対であると同時に、わたしたらしめている一切が矛盾に感じてしまう自己もある。
自己矛盾は、そうなんだろうなぁ、って他人事。
一切を矛盾と見る自己は、自己のない感傷でしかない。

人間として生きることは矛盾であるならば、矛盾を問うことを面白がらない手はない。



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