存在否定をしながら「ただある丈」に遇っていく
存在価値〈存在の働き〉 鈴木章子
赤ン坊は
そこにいる丈で
祖母・祖父・母・父・・・
それぞれの意味をもたせる
病人も
老人も
そこにいる丈で
それぞれの働きをしている
存在することに一つでも理由や上下を付けてしまったら、ありとあらゆるものに理由や上下、選び、差別、分別をつけていかなければならない。
たとえ大切な誰かであろうが、
家族・恋人・友人であろうが、
大事なものであろうが、
優劣を、順番をつけずには活きていけなくなる。
で、人間はそういう生き物だ。
必ず、優劣順番がある。
自らが優劣の判断、選びをする時は、状況や、時間や、場所によってその優劣は変わるのだが、結局の所、自分の正義という建前のなんのことはないその時の気分で変わる。
社会が優劣の判断を下す時は、機械的に、力が強いもの、金があるもの、仲間が多いもの、そんな弱者に優しくない決め方をすることが断然多い。
だから、優劣の根拠はまったくない、どちらの場合も。
流れが変われば、コロッと変わる。
順番つけられる方はたまったもんじゃない。
順番をつけられるなんて冗談じゃない!と憤っている自分自身が順番つけて、選んで生きている。
結局は自分に返ってくる、どこまでいっても。
だからこそ、存在価値は「それだけ」・「ただ在るだけ」、それ以上でも以下でもなく、比べることもできないものである、という「存在の本当」は言い続けなければならない。
逆をやり続けて生きるしかない人間にとって、このほんとうのとこは、綺麗ごとでも言い訳でもなく、自分の歪み、矛盾、汚さ、愚かしさを気づかせてくれる。
納得いこうがいくまいが、わたしの納得なんて関係なく、存在は在るだけで意味を持ち、意義がある。
互いに関係しあってはじめて存在する。
単立での存在は一切ない。
関わりの中でようやく存在し、関わり合っている以上は存在の否定は自己の否定にもなる。
つまり、人間はご都合主義で、あれやこれや否定したり肯定したりする生き物であるのだから、常に自己否定をきちっとしていかなければならない。
それをしないと勘違いする。
新型コロナ禍にしろ、原子力発電所にしろ、原子力爆弾にしろ、地球温暖化にしろ、戦争にしろ、そこに必ず自己反省を持つよう務めなければならない。
そんな面倒くさいことはできないと傍観者を決め込んで、口を閉ざそうが、すべては繋がっている。
他人事ではない。
だから、何も言わなくてもいいが、傍観者でいることはできないことだけは確認しておく必要はある。
全ての問題に首を突っ込むこと、興味を持つことなんて所詮無理だ。
だいたい、いくら情報化社会だとしても、わたしの知りえる情報なんて微々たるもんにも足らない。
だから、なんでもいい、家庭のことでも、学校のことでも、友達関係でも、近所付き合いでも、自分自身の体調でも、関わった、興味を示した、触肢が触れたことは少しでも良いから、ほんの数秒でも良いから、真面目に考えたい。
そこに自分の存在価値が見えるという勘違いくらいはできるときもある、ごくたまに。
そんな時「存在に理由はないといってんだろ」と笑い声が聞こえる。
「そこにいる丈」を持っていると。
そして、ちょっと安心できる。