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想像力低下中。

人間は孤独な独りの世界に生きているけど、その上ですべてがお互いに拠り合って生きていることを、心の深いところで感じているのではないかと思うのです。
だからこそ孤独を恐れ、感動や喜び、苦しさを独りのものにできない。

            瓜生崇


昼に、仕事の途中でたまに行く蕎麦屋さんで早めの昼食をとった。
月に2〜3回だけなので遠慮してたまにと言っているが、わたし的にはよくいくお店なんだな実は。なんせ、職場のある石神井商店街は除いて、外食をすることがあまりないから、月に好んで2回も行く店なんてめったにない。

で、仕事の合間、移動の途中、時間もギリあったので、蕎麦屋にIN!

駐車場に車を入れながら、アレ?、となる。

駐車場は、5台ほど停められるし、頭から入っていって、中で何回か切り返せば、よほどどでかい車でなければ転回もできるスペースもある。

で、いつものように頭から入っていき、いつものように転回、ぶつけないように、こすらないように、切り返し、切り返し、最後に位置の調整をして停めた。

自宅の駐車スペースがけっこう狭いので、車を変えてからずっと、教習所で駐車の練習をしているようなもんなので、駐車にもけっこう成れてきている。
仕事で、とんでも路地に入り込むこともあるので、狭さにも成れてきている。

でも、なんか。。。

なんでこんなにここの蕎麦屋の駐車スペースで、けっこうきている蕎麦屋なのに、なんか手間取ったな。。。

ええ〜!!!

そうか!

もしかしたら。

あんだけ来ていたのに、この車で来たのは初めてだ!
だから、切り返しだ、なんだかんだの感覚が、前の車の感覚が残っているので、うまくいかないわけではないが、手間取った気になったのだ。

実際、2回の切り返し。
ちっとばかし停めた位置を左にずらしたほうがあとから来た車が入れやすいなと、若干位置を修正。
それできっちし入れられたので上出来だ。
でも、前の車だと、空いている時は切り返し無しで入れられたしね。
何台か停まっている時でも切り返し1回で入れられた。

その感覚からすると、手間かけて停めた感はやはりあるのだな、と。

やく、2ヶ月ぶりだったのかぁ。

ここの蕎麦屋に出会ってから、いままでこんなに来なかったことはない!

でも、なんか来た感じがあるんだよな、つい最近。。。
ぁあ〜!そういえば、来たけど定休日以外の臨時休業だったり、車が2台くらい並んでいたのでパスしたのがあったな。

それで、久々に、昔ながらの街の蕎麦屋さんの味を堪能!

いつも一人で、たいてい仕事着(黒い衣)で来るでかい客。
ま、覚えやすいだろうが、たまにしか来ない客なのに、店の人はすでに覚えてくれていて、食事をして、会計を済まして、出ていくときには、
「気を付けって」とか「行ってらっしゃい」
と、送ってくれる。

いいよね、そういうの。

ま、なんか、そういうマニュアルで言われることもあるけど、そうじゃなくて、気もちが嬉しい。
混んでいるときなんかは、「ありがとうございました〜。あ、ハイハイ、ご注文ですねぇ」って背中で言う感じのときもあるけど、その中にも感じられんのよ、ちゃんと、気を付けて、って気もちが。

わかるっしょ。

いや、コンビニやスタンドカフェなんかでも、あ、この店員さんいいな、またここ利用しよ、って思うことがあるのは、マニュアルなんだけど、マニュアルではなく、どこかでほんとにそう思ってくれている、そんな雰囲気で、「ありがとう」「気を付けて」「いってらっしゃい」を言える人に出会った時。

ん?嵌められてる?もしかして、ただのテクニシャンだたりして、挨拶の😅

ま、いいのよ、どっちでも。
なんおことはない、「おれさま」が気持ちよければ、っていう、身勝手な満足感でしかないから。

人混み嫌いだし、人と接するのも苦手だし、あまり話しかけないでくれ!一人にしておいてくれ!そっとしておいてくれ!、そんな感じだけど、そのくせして、やっぱ誰かに気にかけてもらいたくってしようがないらしい。

孤独が怖い、とまではさすがの感じたことはないが、自分を含めて10人いて、9人が仲良しこよししていて、自分だけその中に入れなくても、攻撃さえしてこなければなんも感じないくらい鈍感な質だ。
おかげで、高校時代の修学旅行、5〜6人で一班で自由にめぐる班を作るという時に、気がついたらどこの班にも入れてなかった。隣りにいた、普段さほど仲がいいわけでもなかったやつが、
「おまえ、どこも入ってねぇんじゃないの。うちの班に入ればいいじゃん」
と言ってくれたお陰で、高校の修学旅行、ずっと担任と二人で行動、なんという地獄にならずに済んだ。
アイツにゃ感謝だよなぁ。
その班、あまりというか、ほとんど話もしない気も合わないような奴等ばっかだったので、下手したら一言も話さずただ付いていっただけで終わっていたかもだが、彼は何かと話しかけてきて、写真まで撮ってくれて、ほんといい人だ。

オレに良くしてくれたので、きっととてもいい人だ。
オレの面倒を見て、話しかけてくれたのだから、悪い人んわけがない!

こんな感じで、恩人まで「都合のいい人」にしてしまう自分に呆れるしかない。

ま、孤独は怖くない、とか、独りでも問題ない、と、普段は強がってはいるが、結局は一人では困る。

いま世界中がこんな状況なので致し方ないが、自分以外誰もいない本堂で法事の読経をすることもある。
慣れとかではない。
仏事は誰のためでもない、自分のためだ!とか言ってはいるが、やはりそこに参る人がいるのといないのとでは、緊張感が違う。
いるときの緊張とは違い、いないときの緊張は、なんかうまく言い表せないのだが。。。無理やり緊張をしているというか、緊張をしてやらなきゃ!って感じかな。。。

結局は、人がいるといないのとでは違うもんだな、と改めて感じている。

目に見える、実際に感じることができる、意識できる、そんな繋がりに慣らされすぎているのは確かだな。

だから、目に見えない思いとか願いとか、どこかの誰かのまったく気づけない悲しみや苦しみや悩み、そうしたものにあまりにも鈍感に成りすぎている気もするなぁ。
想像力の欠如というか。。。

目に見える、じかに聞こえる、感じられる、そうした繋がりというものも大事だ。

こうしたSNSを利用して、何かを発信して、それによって表現したものを誰かに見てもらえるというのは、とてもいいことだと思う。
孤独であっても、独りではないことを確かめられる手段として。

でも、何かを媒体としなくても、自分がつらい思いをして、孤独を感じている時に、どこの誰かもしれない人が、どこの誰へというわけでもないけれど、「みんなげ仲良く平和で幸せであればいいな」と思ってくれている。

そんなことを思えるくらいの想像力は持っていたいもんだ。


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