曖昧ME←くっだらねぇ〜😅
私はこの仕事をするうえで、
──曖昧さに耐えること
を大切にしている。
誰しも答えが出ない状況は苦しい。そういう局面に立つと、なんとか(割り切れないことまで)割り切ってしまうことで解決したくなる。けれど、目の前の子ども・親たちがまさしくそのような状況にいる。わかったつもりにならずに一緒に悩み抜く、とことん考えて曖昧な状況に耐え続ける、これがとても大事なことだと感じている。
益田浄子(家庭裁判所調査官)
皆勤賞だ!
365日、休み無しでの投稿。
写真と言葉は、まぁ、やろうと思えばやれないこともないけど、毎日ブログというか与太を飛ばすというか愚痴を書きなぐるというか、こんな風に書いたものを一日も休まずに投稿なんて、自分を特別に褒めてやりたい気分だ。
だいたい忍耐強さ、持続力が欠如している。
それが、一年休みなくできたのは奇跡なんだな、ワタシ的には。
皆勤賞ってのは、高校の時に3年間無遅刻無欠席ってのでもらっていたりするが、日曜だのなんだの休みはあるしね。
若い頃、毎日、走ったり、運動したりも基本無休でやっていたけど、遊びに行ったり旅行に行ったりコンサートに行ったりデートしたり、そんな日は休んでたし。
facebookで10年近く続けていた「写真と言葉」の投稿も、やろうと思えばできる、と書いたけど、一年休み無しでできたのは初めて。
これも、旅行だ、遊びだ、二日酔いだ、面倒くさいだ、やる気おきなくて半年休みとか、そんな感じだった。
で、365日、全く休むことなく続けられたことってなんだろう?と考えてみた。
飯を食うこと。
息をすること。
寝ること。
排泄すること。
間違いなく、365日以上連続でできたのってこれくらいじゃないかな?
食事は、何回かは抜いたことがあるので、今までずっとではない。
寝るのも、若い頃は徹夜で二日くらいはよく遊びまくっていたので、これまたずっとではない。
排泄は、小の方のみだな。大の方は便秘ってわけじゃないけど出し忘れがある日もある。でもこれは、生まれて以来ずっと皆勤賞だ。
息はもちろん生まれて以来の皆勤賞。
他は良く覚えていない。
息ってのもだけど、無意識で言えば、内臓も血流もずっと皆勤賞なんだよね、休むことなく。
そりゃ〜、疲れてくるわな、身体様も。
ともかく、自ら目標を持って、これをやってみようと思ったことで、一年、休みなくやれたのは初めてではある。
これが自信につながるかと言えば???だな。
別に、途中からは、今日を目指して意地になっていたけど、とっとと止めてもいいかなて気もずっとあったりもした。
惰性でなんとかだし、内容が在るわけでもないし、なんかやれたな、ってだけで、今の気持ちとしては、とりあえず一年休み無しで続けられたし、明日からはいつ休んでもいいし、止めてもいいや、って感じになれて嬉しいいな、って😆
でもたぶん、毎日ではないにしても続けそうだな。
文字にしてぼやいていると、ほんと、色々と気付かされる。
そんな事考えていたんだとかもあるし、結論がどうも思っていることと違うことも在るし、正しいと思っていた事に疑問符がつくこともしょっちゅうだし、自分の考えの欠点が見えてくることなんか毎回だ。
思考が続くんだな。
疑問が新たな疑問、それも全く関係のない方向の疑問までも投げかけてくれたりもする。
その瞬間、その疑問に対するアプローチはほとんどしないし、したところでなんら発展的な思考の流れもないのも解っているので、疑問は疑問のまま放置される。
で、あるときなんかしていると、例えば人と話をしていると、人の話を聞いていると、なんらかの事象事件に遭うと、その疑問が潜在から出てくることがある。
あ!これ、前に感じた疑問だ!って。
それでも答えは出ない。
でも、疑問が働き出す。
エネルギーになる。
答えは安易に出すものではない、ということを、この「note」を書き出して、再確認させてもらったのは、わたしにとってはとても有意義なことだ。
元々の性格は短気で答えをビシッとその場で出してもらわねば嫌なんだ。
だから、本を読んでいても、一気に読み上げられるのであれば、寝不足になっても読み上げてしまう。
会議でも、適当にいい加減な状態で終わらせるのは嫌いだ。
でも、ある頃から、それは違う、と思えるようになってきた。
答えを焦るな。
答えを出すことが大事だと思うな。
そう言い聞かせるようになってはいる。
あ、会議のための会議はいらないけどね。
これは時間の無駄としか未だに思えない😅
「曖昧」を大事にできるかどうか。
まだ、「曖昧」を大事にできているとは思えないな。
どうしても曖昧であることを許せない自分がいる。
この一年、それにも気づかせてもらってきた。
書けば書くほど、しつこく、答えを求めるな、問いは新たな問いを見つけるためにある、悩むこと疑問を持ち続けること思考そのものが大事だ、と書けば書くほど、それができていない、そういいながらもそれを厭い忌避しようと答えを出そうとする自分が見えたりもした。
ま、グダグダと書き連ねて、どうでもいいようなことを愚痴っているだけなんだけど、自分にとってはけっこうここに書き込むことは大事な作業になっているのかもしれないな、と。
ともかく、そうはいっても、今日で一段落が付いて、勝手に自分で自分に課した重荷を下ろせるような気分であるのは確かだな。
考えてみれば、わたしにとって、いちばん曖昧なのはわたし自身だな。