見出し画像

STOP!

真面目であることは大事なことです。
一生懸命に生きることも大切なことです。
しかし自分を顧みることのない真面目さと一生懸命さは時には悲劇をもたらします。

            尾畑文正


この道は間違いだと確信して進む人間はいない。

入り口からしばらくは、もしかしたら間違いかも、ときには、間違った道を選んでしまった、と思いながら進んでいても、その道を歩むうちに、言い訳を自らのうちに作り、自らに言い聞かせ、気がつくとその道は正しい道になっていまって、猛進している。

周りは見えない。

邪魔はさせない。

ここからその道は抜け出せるよ、という声でさえ、たぶらかす、正義を邪魔する邪悪な声としか受け止められなくなる。

裏にあるのは恐怖心だろう。

間違いを指摘されることを人は恐怖する。
救いだとは思えない。

道が間違いであるだけで、存在そのものが間違いであるわけではない。

それでも、道を謝った瞬間、存在そのものをも自ら否定せざるを得なくなると勘違いを侵す。

なぜそんな勘違いに陥るかは簡単な理論だ。
他者をそう見ているからだ。

間違った道を行く者の、その道の否定だけでは済ませず、存在そのものを否定する。

オレも、間違ったら、否定される。
否定された自分を、自分だけが肯定すれば、二重に否定される。
だから、道を間違えたら自己存在否定をする。
ナンセンスだ。

存在否定ではない。
存在否定など誰にもする権利もなければ、誰もすることはできない。

あるものはある。

ただそれだけのことだ。

入り口で感じた、はじめの一歩を踏み出す直前のドキドキ感と同時に恐怖心、猜疑心を忘れないことだ。

先ばかりでなく、後ろを振り向き、四方八方を眺め、足元を見つめる、立ち止まる勇気を持つことだ。

真面目で一生懸命になっている時こそ、自信がある時こそ、立ち止まる勇気が必要だ。

引き返せなうとも、方向転換を徐々にすることくらいはできる。

少なくとも、猜疑心くらいはもう一度得ることができる。

仕事・学業・人間付き合い・趣味・遊行・財産
そんな身につけている装飾品がわたしではない。
間違っていたら、似合わなければ、カッコ悪ければ、装飾品は取り去ればいい。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集