レッスン
人生は経験の連続だ。
たとえそのときの自分にはわからなくても、すべての経験には理由がある。
生起した事態のなかには、かならず必要なレッスンがふくまれている。
エリザベス・キューブラー・ロス
いま、この瞬間、常に新たな自分を生きている。
ひと息、一鼓動、一刹那前の自分とは違う。
そこまではどう考えても受け止められない。
でも、確実に一時間前の自分とは違う。
それくらいなら、受け止めることができる。
疲れているし、眠さもあるな。
声を使いまくってきたので、喉のイガイガがあるのでのど飴を舐めだした。
今日は、高音の最高音のところではなくて、若干低めのところの声が引っくり返る日だった。
音程がとれなくて、音痴だった。
朝、車の中で発声練習代わりに歌を唄ってみた。
「あ!今日は調子がいい」
と、思っていた。
ところが、午前中の最初の仕事でどうもおかしいことに気づいた。
自分の声が掴めない。
違う!そこはもう少し低め。そこは抑えて。
まったく違う音が出る。
ドレミ♪と唄うつもりが、発声をするとレソソ♪になってしまう感じ。
「頭や喉で音程を取るのではなくて、お腹で音程を取る感じを思い浮かべて!」
と、ボイストレーニングでよく言われた。
それを注意して出すが、喉で音程を取れと頭が勝手に指示を出していやがる!、そんな感じだった。
なんか必死だった、一時間前。
おかげで、音痴がまだ治っていないことに気付くし、帰路で試しに唄ってみるとまったく音程が取れないし、まだまだやることがいっぱいあるな、と、反省しきり。
てことで、一時間前のじぶんよりも確実に疲れている。
でも、やる気は一時間前よりあったりする。
そんなもんだ。
コロナのおかげで、現在、フェイスシールドをして仕事をしている。
マスクだと呼吸困難に陥る。
フェイスシールドは呼吸は楽なのだが、自分の声が反響しすぎて捉えづらい。
だからどうしても、探る、音を、声を。
探るので、どうしても素直に声が出せない。
喉に負担がかかる。
出した音を修正しようとする。
出したもんは修正できるわけもないのに、気持ちがついつい声を追いかけてしまう。
目の前で反響するので捕まえられると思ってしまうのかもしれない。
どうも、やはり、この半年、声がちゃんと出せていない。
それにもどうにかこうにか慣れてきていたつもりだった。
が、一旦うまくいかなくなると、ものの見事に引きづられてしまうようだ。
考えてみると、午前中の第一声目が引っかかったのが尾を引いているのだな、と、いまさら気づいた。
明日からは、第一声をもう少し意識して大事に出そう。
ただ、あまり意識しすぎると、よけいによろしくない。
どの程度がいいのか、明日から、調子を取り戻せるまでの少しの間は試行錯誤だな。
さてと、今日の経験は貴重なきづきだったな、そう思えるようにレッスンせねばのぉ(^^)
明日の第一声が楽しみになってきた。
なんか、こんなことを書きなぐっていたら、少し疲れが取れてる気がしないでもない。
気分的には疲れが取れているかもだが、年齢を鑑みれば、体力的疲れが取れるわけがない、と、自ら言い聞かせておこう。
年取るとさ、気分と体力、本当に切り分けて考えなければならないから、面白いよね。
体調万全!と思っていても、体がついて行かない事もしょっちゅう😅
ま、死ぬまで、人間、自分を知るためのレッスンだわさ。