遅慮
人間の根本的な、じみちな生存目標は、あくまでも自己の生命を誠実に、いきいきと生きぬくことであろう。
人間は矛盾と葛藤のなかに身をおき、苦しみながら光を求めて生きて行くべき存在なのであろう。
神谷美恵子
最近ふと思うことがある。
例えば今朝なんかもだ。
桜も散りだし、マスクをして散歩をしていると暑苦しく感じるようになり、「もう4月かぁ、はやいなぁ。あっという間に夏だな」なんて思った刹那、死に日に日に近づいているな、と。
間違いなく、いままで生きてきた時間と同じ時間は過ごせない。
それどころか、おそらくは半分の時間も過ごせないのではないかと思う。
予想では、1/3くらいかな。
なんても思ってもみる。
打ち消す自分がいる。
1/3は生きられると思っているんだ?いや、少なく見積もって1/3だろうから、本当は1/2くらいは生きられると思っているんだろ?
と、意地悪く笑う自分がいる、「脳天気だな。死ぬとは思っていないんだよ、実際は」と。
でも、能天気で、現実味薄く、死を未だに他人事でしか捉えられていない自分ではあるが、その、「日に日に・・・」と思った瞬間は、「どうしよう。何をしよう。どこへ向かおう」と、そんな気分になれる。
そういう時だけ「生きている」わたしに出遇い、「わたし」という存在そのものを感じているようだ。
死がいいものなのか悪いものなのか、それは死んだこともないんでわからない。
わからないから畏れる。
わからないから大丈夫だともうそぶける。
先はわからない。
だから先ではなく、今を生きるしかできない。
でも、見ているのはいつも先のことばかりだ。
それも次の世代やその次、本当の未来のではなくて、自分がいい思いをできるか否かという目先しか見ていない。
そこが「いま・ここ」だと勘違いをしている。
足元を見れなければならない。
でもね、足もとは、「いまここ」はみることができないんだよね人間には。
なぜなら人間がいつも見ているのは「間」だから。
社会であり、仕事であり、家族であり、仲間であり、敵であり、関係性を見て、そこに自分を描いているのが人間だから。
だから、人間が観ている「わたし」は自分のハチャメチャなキャンパスに描いた社会の中にある「わたし」でしかない。
物語りのいち登場人物としての「わたし」に足元を見させているだけでしかない。
でもね、その幻想でしかない「わたし」に足下を見させることは、わたしが足下を見て「いまここ」を生きることに必要なことような気がする。
矛盾が悩ませる。
葛藤が脅迫する。
そして、わたしを感じさせる。
これもまた矛盾と葛藤の中の妄想。
わたしを感じているという。
そうありたい、そうあってほしいという。
この思考の連続性を断った途端、わたしは失われる。
あなたも、彼も、彼女も、あいつも、どいつもいるのにわたしだけが失われる。
わたしは確実にあるのに「わたし」がなくなる。
わたしは失われたのに「ないわたし」がある。
決して「無我」ではない。
わたしの根拠がなくなるわたしの中に。
矛盾している自分を悩み、葛藤を厭わず、わたしをキャンパスの上に、私小説の登場人物として、空想の妄想のわたしを描き、そのわたしにわたしを探らせることしかない。
こうしている間にまたしに近づいた。
そしていま、死に近づきながら「一番若いわたし」を生きている。