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ヒマな時の「生活」は危険。
ほんとうの生活とは、どんな生きかたでしょうか。
私たちはほんとうの意味で生活者とは言えないのではないか。
なぜなら、生活する主体が不在だからです。
つまり、ほんとうの「私」が居ない。
居るのは自我意識としての私だけです。
それが証拠に、私たちの生きかたは、自我の思いと周囲の状況だけが頼りなのです。
池田勇諦
そもそも「生活」って何?
こういう問が結構つきまとう、ある時から、生活していて。
基本的に「生活」というものは、起きて・食べて・排泄して・寝る、そこに尽きると思う。
その基本というか根っこを、できるだけつつがなく営むために、家族や仲間といった関係性をつくり、仕事をし、娯楽をしたりする。
根っこの「生活」は理由理屈はないものである。
生理現象だ。
目が覚めたから起きる。
身体が求めるから食す。
勝手に出る。
眠たくなって寝る。
生きるために食すわけでも、健康のために排泄するわけでもない、本当は。
食す、排泄するにも意味付けをしてしまう。
そのへんからもう、生活が見えなくなる。
気がつくと、より良い仕事をするため、より楽しく娯楽の時間を過ごすため、家族のため、社会のために、寝て・食して・排泄して、嫌々起きる、そんな生活の逆転が見えることが儘ある。
意味違うよね。
人間が生きていく以上は、家族や仲間や社会のため・みんなとうまくやっていくためという意識は必要だし、仕事や娯楽は必要だし、生きがいや・やりがいもないと困るし、頼りにされているという存在意義を誰かに証明してもらいたい。
でも、本来は存在意義は存在そのものであり、その存在の生理現象は誰かのためでもなにかのためでもなく、その存在にとって何もまして必要不可欠なことというだけのこと。
なんかしらんが、こんなことを「生活」という言葉を聞くといつの頃からか考えてしまう時がある。
ヒマなんだな😅そういうときは。
遊ぶ気にも成れず、テレビやビデオを見るきもなく、本を読む気分でもない。
テレビやビデオを見たり、本を読んだりしてもまったく頭に入ってこない。
本なんてそんな時に読んだ日にゃてぇへんだ。行が変わる頃には前の行に何が書いてあったかも忘れ、気がつくと同じページを何度も読み返し、それでもまったく意味がつかめていない。
そういうなんもない時に、「生活」なんて言葉が降ってきたり、どこからか聞こえたり眼にしようもんなら、こんなふうにどうしようもないことを考え出す。
どこからどこまでが日常生活であり、どこからどこまでが社会生活なんだ?
仕事や遊びが中心で、そこに生きる意味を持つってことは、それが日常であり、それをつつがなく進めるための寝たり食べたりは社会生活?
なんてことまで無理やり当てはめてみたり、そうやて暇つぶしをしているってわけだ。
で、「今日の言葉」に言い当てられているとおり、そこには「生活をしている主体」がお留守である。
ともすると「自我」すらいないのではないかと思えてしまうくらい「他人事」の生活でしかない。
だから、あまり、こういう「生活」をいう言葉、「生活」を想起させるような言葉はなるべく選ばないようにしているんだな。
でも、今日は、思わずこれを選んじゃった。
これから、会議のために都心まで出る。
電車でも、移動途中でも、なんか買い物でもしたりした際でも、ふと生活を気にしてしまう今日になるかもしれん。
ま、そんな日もあってもいい。
これもおいらの生活の一部だ。