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短絡的な争い。
「無意識の差別意識」
感動しているあなたの心は、「障害者やなのにぃ」いうて感動しているのか、一人の人間として見て感動しているのか、って微妙なところね。
山本シュウ
女らしさ。男らしさ。
こんな言葉があるよね。
言葉は生きている。
時代錯誤に成ることすらある。
でも、その言葉が差別を生み出すからなくせ、では何も変わらないと思う。
差別って何?自分の中にある?と問い続けていくことが唯一、自分の中の差別心と向き合うことが差別を少しでも無くす道なのではないかな、と、思う。
で、女らしさ・男らしさ。
何度も書いているけど、昭和の終わりかけにいっとき役者と演出をやってみた時期がある。
で、これは日常のあり方ではなくて、女らしさ、ってことばを大事にしなけりゃならない世界もあるよなぁ、ってことなんだけど。。。ま、年寄の世迷い言をすこし。
杉村春子・山田五十鈴なんて役者がまだバリバリ現役だった。
この二人の演技は、女らしさ・男らしさが渾然一体となった見事な極上の織物のようだった。
とにかく所作が綺麗でカッコよかった。
茶碗一つ取るだけ。
振り返るだけ。
ソデからでてくるだけ。
立っているだけ。
一分のスキもないような所作だった。
正直、当時は、すげぇ〜!、と思った瞬間、でもこの芝居つまんねぇ〜なぁ、で終えちゃっていたんだけど😅
綺麗を超えてカッコが良かった。
女らしい所作から男前を感じた。
大股おっぴろげて、いかつぶって演じている役者より、小柄で歳もそうとういっていたがスッと立つ山田五十鈴のほうが迫力があって、カッコよかった。
女将さん役で、綺麗な動きの中でチャキチャキと場を締める杉村春子の演技に憧れた。
女らしさ、男らしさをひとつの役の中で、そのいち場面で、一つの台詞の中で、見事に併せ持った演技だった。
使う場所や使いようによっては、ま、今どきでは言葉を換えていく必要もあるのかもしれないが、「女らしさ」「男らしさ」という世界はあってもいいのかな、なんて思う。
ま、これは、ちょいと最近、また言葉狩りに走りそうな雰囲気に対しての天の邪鬼の反発心から。言葉狩りだけはやめましょうという。
だって、なんも言えなくなっちゃうから。
もちろん、政治家なんかがここのところ口にしたような差別発言は論外。
行間を読む、そういったもんももう少し必要な気もする。
「コトバ」そのものに反応しすぎ、そのコトバの裏や雰囲気や状況なんかを読めない人も確実に増えている気もする。
あまりにも短絡的な思考の人も確実にいる。
そうした風潮は、悪役演る人=悪い人、暴力を振るう役演る人=極悪人、みたいな短絡思考から、罵詈雑言でその人を貶めるようなことまでする、そんな人間をも生み出している。
ものを考えられない短絡的な風潮になっているのではないかな、という危機感がある。
女は女らしく、男は男らしく、ってのは昔から嫌いだし、こんな短絡的な考えはありえないしよろしくない。
「女らしさ」「男らしさ」という言葉は最悪の言葉だから使うな、ってのも短絡的。
ひとりひとりバラバラの個性があり、バラバラの「らしさ」があっていい。
そのらしさを探るのには時には、性別関係なく「女らしさ」「男らしさ」をヒントにするのはいいんじゃないかな。
何かを表現して見せる場合でなければ、基本、「女らしさ」「男らしさ」ってのは人に向けて使うのではなくて、自分に向けて使えばいい。
そうすると葛藤も生まれる、気付ける。
自分の中にある「女はこうあるべくだ」「男はこうあるべきだ」という偏見差別に気づく事もできるかもしれない。
わたしの中には確実にあるな、自分勝手に決めている「女らしさ・男らしさ」という線引、差別心、偏見。
う〜ん。。。これ以上頭が回らない。。。
女・男という極論でカテゴリの肯定と否定、内存しているカテゴリへの偏見から成る差別心、そんなことを話そうと思ったけど、本日もまたまた撃沈。
人と相対した時に、その人のカテゴリを一切気にしないで相対することはできない。
三人の人がいて、ひとりひとりを一人の人間として、一切のカテゴリを無視して、同等の状態で見ることはわたしにはできない。
だから、むりくりでも、「同等に見ろ」と自分に言い聞かせることくらいしかできない。
目の前の人を見てみよう。
人として、人間として、見れるか、それ以上の一切の情報を削除して。
親と、子供と、友人、パートナーと相対したときにも。
絶対無理だ。
ってことは、必ず自分の中に差別心があるという証拠だ。
卑下する事実でも、反省する事実でもなく、ただそういうことなんだなと受け入れるべき事実だ。
大事なのは開き直らないことだと思う。
そこで、いくらかでもその差別心を抑えるにはどうしたらいいのか、どういうときにはこの差別心は絶対に使ってはならないのか、使ってしまった時に恥じることができるか、それを悩むことを続けるしかない。