散髪くらいじゃ変われねぇよ。
私たちの生活は、「立派な人だといわれたい心」(名聞)、「利益を貪る心」(利養)、「高慢、人を軽んずる心」(勝他)を生きる自己愛の“罪の身”、この三つの心から離れることができない。
そのようななかで日々を苦慮し、また自損損他の生活に明け暮れ、その歪みのなかにいともたやすく陥ってしまう。
神戸和麿
わたしは14の時に得度した。
この時に一回だけ剃髪をしている。
浄土真宗の場合は、その一回だけで剃髪をすることは義務付けられていない。
女性の場合は剃髪はない。
ま、そこに問題性を考えるか否かは置いておいて、ともかく得度をした。
で、得度ではないけど、一般の方が法名(他宗で戒名という仏門に入るときの名前)をいただくときの儀式を帰敬式(ききょうしき)という。
この時は男女問わず剃髪必要はない。
でも、いずれの場合でも「剃髪の儀」というのはある。
「おかみそり」とも呼んでいる。
この時に、式を執行する者は受式者の頭部に3回カミソリ(刃は入っていない)を当てる。
それは「三つのもとどり」を着るという意味がある。
三つのもとどりというのは、上記の名聞・利養・勝他の事を指す。
つまり、カミソリでもって、その三つの心を切り離すという意味がある。
それをすることで、わたしは仏門にはいり、三つの心を捨てて活きていきます。ということだ。
法名をもらって、カミソリ3回当てられたからって、なくせるはずがない。
なくすような生き方をしております!なんて言えるわけもない。
人によく見られたくてしようがないし、少しでも多く得をしたいし、隣の家よかいい芝生を植えたい。
多かれ少なかれ、そんなもんを頼りに生きている。
損して得取れ!なんて言われても、結果そうなった時はあったかもしれないけど、入口から損するつもりで、負けるつもりで、嫌われるつもりでは生きられん。
損得も、勝ち負けも、人の眼も気にせず、なんてできるはずもなく、いつも気になってしようがない。
この、得度や帰敬式の「剃髪の儀」の意味は、「三つのもとどり」を切ることはできない、自損損他の自分でしかないことに、おりおりで気づいていけという意味がある。
気づきが大事なのだよ、ということだろう。
いや、きっと、それを目指して生きられている方は多くいると思う。
でも、そういう方ほど、「あぁ、まったくもって無理だ!」という気づきを味わられているだろう。
このことを知ると、こうすりゃこうなるというマニュアルの世界ってもんが、なんだか嘘くさく思えるようにはなれた。
マニュアル通りは楽で助かるけれど、面白くはないな、なんてふうにも思える。
そのくせして、テメェで勝手に作り上げた、これいいかも!なんて信じてみたマニュアルが、マニュアル通りの結果が出ないとムカつく、それも、結果が予定よりも悪いと思えた時だけ。
良い方に出ると、世の中、マニュアル通りにはいかねぇもんだな、なんて余裕かまして、笑顔になる。
まったく「もとどり」切れてない。
しっかり、根強く、一切枯れることなく、年老えば年老いるほど「もとどり」は刃金も欠けよとばかり頑丈になってきている。
生活が歪んでいるもんだから性格も歪み、苦慮ばかりしてっから頑固になるばかりだぜ。
やばいよね。
で、今これを打ちながら感じているのは、そろそろ髪、切りに行かなきゃなぁ〜、てこと。
4ヶ月切ってないから、けっこうな長さになっちまった😅
髪を切ると心が軽くなる、って、人が言っていたのを前に聞いたことがある。
わたしの場合は、ただ、風呂上がりが楽になるだけだな、髪が早く乾くし。
心までは軽くはならないな。
そんな、素直にできていないし😅
髪を切りに行くべ、近々。
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