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木を見て森をみないではなく、森を見て自分を見ろ、だな。

かなしみ    谷川俊太郎

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
 
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった


いつものことではあるのだけれど、またまた、ここひと月以上、朝の撮影散歩で、
「毎日変わらねぇなぁ、なんも」
と、なっている。

で、無為にシャッターを切っていると、少しだけ何かを見ようとする目が覚めてくる。
で、目が行くのは、毎日同じような風景であり情景であり人の行動。
それでも、昨日と同じ写真かもしれないが(同じ写真なんて撮れるわけないのだけれどね)、せっかくなのでシャッターを切る。

パソコンにデータを取り入れ、確認していく。

案の定、昨日も撮ったような写真が多数。
何枚、同じような写真を季節ごとに撮っているだろう。

そして、最初の方の写真、無為に撮った写真の中に、「!」というような情景があったりする。
ピントも合っていない。アングルもよろしくない。シャッタースピードもよくない。手ぶれてる時もある、
なんの気無しに、ただ自分に、写真を撮るぞ!というスイッチを入れるために適当に撮った中にある「!」。

見落としていた、気づきもしなかった、そんな時間が実はそこで展開されていた。
もし同じところで、それに気づけていたらな、と後付でしかない、後悔でしかない、後悔しても致し方ない自分の認知能力、感受性の乏しさ、そんなもんに気付かされる。

それでも、そこでシャッターを切っているということは、おそらくだが、なんらかの意図が働いて、その「!」をくれるものではないが、何かがほんの少しだが気になったのだろう。

ほんの小一時間の撮影散歩だが、とてつもない見落としがあるのだろうな。

わたしの人生、どれだけの見落としをしてきたのだろう。

そんな事を考えさせられる。

自分自身のこともだが、他人のかなしみ、涙、怒り、苦しみ、時には見て見ぬ振りをして、大半はまったく気づくこともなく、それを無視し続けてきた。

時には、自分の育ってきた、伝えられてきた価値観にしがみつき、それを否定することを厭い、
「最近の〜〜〜」とか
「〜〜〜のくせに」とか
「常識的に〜〜〜」とか
そんな逃げ口上、自己防衛のセリフを並べ立てて、重ねて他者を傷つけてきたのだろう。

他者のかなしみ以上に、そんな自分自身がかなしいと思えるように成れるかどうかだ、これからの歩みの中で。

同情をするのではなく、かなしみがある社会が自らのかなしみ、自らの痛みと感じられるようになれるかだな。

まちがいなく、いまの弱者排斥の社会を作ってきたのは、わたしであり、そういうものだと伝えられてきた価値観に何ら疑問を持たずに染まりまくってきたのはわたしだ。

けっこう大変だぞ。

産まれてからずっと、この、男尊女卑、封建主義、家父長制度、上意下達、優生思想、鎖国性にどっぷり浸かって、染み込んだ根性がある。

それを見つけては「はぁ〜」、見つけては「はぁ〜」、と、情けなくなりながら生きるしかないな。

ただ、見つけられないほうが怖いよね。
気づけないほうが。

気づけて「はぁ〜、またやっちまった」と思える時はまだマシだ。

こんなふうに書き連ねているくらいだから、まだ他人事なのだろう。

「かなしみ」「慚愧」に出遇えるまでは、わたしはあくまで森くんと大差ない差別者なのだろう。

はずかしいな。。。

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