
さ、まずは蕎麦の歴史知らないと
お蕎麦は、日本の主食の一つである。蕎麦はソバ科の植物であり、古くから食用に利用されている。日本において蕎麦が食されるようになったのは、奈良時代(710-794)である。当時は、蕎麦は仏教徒が禁じられた動物性食品を摂取しないための非常に貴重な食材であった。また、墨俣の戦いの際にも、蕎麦が兵士の生命を救うこととなったとされている。
また、江戸時代(1603-1868)に入ると、蕎麦が庶民の食べ物として広く普及するようになる。当時は、毎月の初午(はつうま)に蕎麦を食べる習慣があり、それが現在でも残されている。
現代においては、蕎麦は日本の代表的な食文化として位置付けられており、蕎麦屋も広く存在する。また、蕎麦は酒の肴としても愛されており、日本酒との相性が良いことでも知られている。
~~ここまでAIに「蕎麦の歴史教えて」って聞いたやつ。
AIってマジすごいっすよね。2秒くらいでこの返信くれました。
って事で、ここからは情報の編纂(仕切れてない)して列挙してみました。 4000字を越えてますよ。こりゃ、読み物だ。巻物だ。
いざ、お店をやるとなるとその「業界」で戦ってきた、歴史を作ってきた人へのリスペクトが大事なんで調べたくなるんですよね。
さ、蕎麦は「中国生まれ」です。
蕎麦栽培の始まりは、紀元前3000年ほど前。中国の長江とメコン川の上流と言われ、海を渡って対馬を経て、本州に入ってきたのは縄文晩期。
島根県飯石郡頓原町から一万年前の蕎麦の花粉が発見され、高知県高岡郡佐川町では九千三百年前、更に北海道でも五千年前の花粉が出ているとある。
粉にする道具である挽臼がまだないので、粒のまま雑炊のような物にして食べていました。
平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する救荒食物としての雑穀だったと考えられている。
鎌倉時代に中国から挽臼が伝わり、粉食文化がようやく始まるが、麺になるにはまだしばらくかかる。
練って作る蕎麦がき、水で溶いて焼いた蕎麦焼きとして食べられるようになり、小麦粉の代用として使われるようになりました。
しかしまだ美味しさという意味ではほど遠く、飢えをしのぐためといった目的が主流となり、富裕層や貴族社会ではほとんど食べられてはいませんでした。
お米や小麦粉に比べ、蕎麦は荒れた地でも育ち、かつ、種蒔き後、4~5日で発芽し、30~35日目頃に開化最盛期を迎え、70~80日で収穫適期となるため、格段に早く、年に2回は確実に、いや、うまくすれば3回収穫できるスピードフードであったから。
この収穫スピードの理由により、蕎麦は、その後に起こる戦争による貧しさもあった昭和初期の時代でも、農家さんらに、飢えを凌ぐ主食 兼 非常食として食べ続けられることになったのだ。
ある意味、日本の風土にあったスーパーフード。
蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録
同寺での1574年初めの仏殿修復落成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在したことが推定されている
庶民への普及は18世紀(元禄時代)であったと推定されている
稲や小麦などイネ科の穀物と比べて、ソバは寒冷や乾燥に強く、それらの栽培の難しい山間部では伝統的に蕎麦の栽培が広く行われ、名物や名産となっている地方が多い。
つなぎを使った製麺技術が発達したのが江戸時代中期から後期。
それ以来、つなぎを使う蕎麦が主流になる。石臼とつなぎがターニングポイント。
ただ江戸時代の蕎麦は現在のように茹でるのではなく、蒸す調理法を取っていました。
この頃に蕎麦を麺として食べるようになり、蕎麦がきと区別するために「蕎麦切り」と呼ばれていました。
蕎麦切りという形態が確立されて以降、江戸時代初期には文献に、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。
1690年 / 東海道中に蕎麦切り専門の茶屋が21ヵ所描かれている
つなぎを使わない十割蕎麦は切れやすいので、切った蕎麦を蒸籠に乗せて蒸し、そのまま客に提供する形が主流。
今でも「盛り蕎麦」を「せいろ蕎麦」と呼ぶのはこの名残。
そして十割蕎麦の一方で小麦粉のつなぎを加えた二八蕎麦も誕生して、こちらは蕎麦粉が8で小麦粉が2の割合で打たれた蕎麦のことを言います。
これには諸説あり、名称に関しては蕎麦粉と小麦粉の割合から、または値段が16文であったことから、2×8=16の符丁からきたものという説があります。
蕎麦としての形状は整いつつありますが、驚くのはそばつゆで、この時代は今のような鰹節の出汁に醤油や味醂が加えられたものではなく、味噌がベースとして使われていました。
シンプルに「味噌だれ」と呼ばれていて、味噌に水を加えて煮詰め、布袋に入れて吊るし、垂れてきた液体を利用していました。
当時の江戸の町は、参勤交代などで単身赴任者が増え、男性が極端に多かった。男女の人口比率は女性2に対して男性は8だったのもある。
蕎麦が好まれる江戸には特にその数が多く、関東大震災以前は各町内に一軒もしくは二軒の蕎麦屋があるのが普通だった。
炊事をする女性が少なく、おひとりさま向けの外食ビジネスの需要が高まったよう
1657年頃、浅草にできた一膳飯屋を皮切りに、蕎麦を提供する店が出現。
気軽にお腹を満たせるスタイルが江戸っ子に受けて、町には蕎麦屋が瞬く間に増えていきます。
近代の蕎麦屋には、蕎麦を中心に品数があまり多くなく酒を飲ませることを念頭においた発展をしている店がある。そのような蕎麦屋の酒を「蕎麦前」と称する。
太平洋戦争以前の蕎麦屋には、蕎麦を食べる以外の様々な用途があった。まず、町内の人間が湯の帰りなどに気軽に立ち寄り、蕎麦を手繰ってゆく格式ばったところが無い店である。またその一方で現在の喫茶店のように、家に連れてきにくい客と会ったり、待ち合わせをしたりする場合にも用いられた。たいてい一階が入れこみ、二階が小座敷になっていることが多く、二階は込み入った相談、男女の逢引、大勢での集まりなどにも用いられたという。戦後はこうした雰囲気も徐々に薄れてきたが、今も静かな雰囲気で風情を楽しむことができる店も存在する。
山の中は「水が綺麗だから、蕎麦たべる」という漠然とした考えだったんですが
日本の農山村においては、伝統的に蕎麦切りはもてなしの料理だったようで。
蕎麦切りは祭礼や正月、来客時のごちそうであると認識されていて、どこの家も素人ながらに蕎麦打ちの技術を持っており、来客があると、家の主人もしくは主婦が蕎麦を打ち、食事として供した。
関東はやや硬水なので濃口醤油や厚削りの鰹節が合い、蕎麦を付けて食べるスタイルが受けた。
関西は軟水なので薄削りの鰹節や昆布と相性が良く、つゆも一緒に飲むスタイルになった説あると思う。
江戸時代、浅草の称往院(現在は世田谷区の烏山寺町に移転)境内にあった道光庵という塔頭の僧がそば打ちの名人で、当時のそばの番付で上位の常連になるなど有名になったため、称往院には「そば切り寺」の異名がついた。
その名前を借りようとそば屋の屋号に「庵」が多い。
(寺庵:小さな寺)
蕎麦に人気を高めようと店側もさまざまな工夫を凝らして、今もそば屋で酒を飲むのが粋と言われているのは、蕎麦が茹で上がるまでの時間を短気な江戸っ子に楽しく過ごしてもらいたいと思い、酒を供するようになりました。
当時、蕎麦と酒というのは相性が良い組み合わせではないと思われており、そのため酒を楽しむ人のために蕎麦を抜いた「ぬき」蒲鉾を薄く切ってわさびと醤油を添えた「板わさ」天ぷらの「天たね」などのメニューがありました。
どれもそば屋に常備されている食材であり、つまみとして用意しているものではないのがポイント。
「昼から飲んでて、怒られない」
これが「蕎麦屋呑み」のルーツと言ってイイでしょう。
江戸時代は、蕎麦屋で注文を受けてから蕎麦を切り茹で冷やすという提供までには時間が掛かっていました。
そこで蕎麦を食べるまでの時間に蕎麦で使用する天ぷらや蒲鉾などを肴にお酒を楽しむこと。
それを「蕎麦前」と粋な蕎麦屋の愉しみ方として現代まで続けている。
俳句の世界における蕎麦湯は歳時記に冬の季語として紹介されている
これは蕎麦切りの茹で湯という副産物ではなく、前述の蕎麦湯の文献上の初出の時代には大変貴重な砂糖と蕎麦粉を溶いた蕎麦がき状のものを指し、和菓子の文脈に近い、似て異なるものであったと考えられる。
医学の発達した現代には、文献上に見られる整腸作用よりは、冷やしの蕎麦つゆの味覚を楽しむという目的に変わっていった。その場合、直接飲むには味が濃いので、蕎麦湯で割って飲むことで出汁やかえしの風味を楽しむという理由付けである
しかし、塩分のとりすぎが日本人の高血圧症の原因との指摘が散見されるようになって以降、蕎麦つゆで割った蕎麦湯の塩分に注意する旨の表示も見られ、蕎麦湯のみを飲む人も増えてきた。
よって、蕎麦湯に残った蕎麦の余韻、蕎麦湯そのものを味わう楽しみにも焦点があてられるようになった。名水が有名な地方などでは、ゆで湯の水の味を重視して良質な水をゆで湯に使用し、蕎麦粉の濃度は低い蕎麦湯を出す店もある。
なお、蕎麦湯に水溶性の栄養分が溶け出しているために蕎麦湯を飲むという説
ルチンについては不水溶性なので、食品添加物として水溶性が高いα-グルコシル-ルチンを加えていない限り蕎麦湯から摂取しようとする方法は現実的ではない。
冷えた蕎麦を食べた後で澱粉質により葛湯のようにとろみがついた温かい蕎麦湯を飲む事で体が温まる事も健康に寄与すると考えられている。
蕎麦湯を飲む習慣については地域差もあり、特に関西地方ではあまり一般的ではないと言われる。『産経新聞』が2017年に大阪市で街頭インタビューを行った結果によれば、そもそも蕎麦湯の存在を知らないとする回答者が約半数を占めたほか、蕎麦湯の存在を知っていてもそれを飲む行為を否定的に捉える回答者が多かった
蕎麦湯を必ず飲む人間の比率は東日本の68.3%に対し西日本は48.5%、特に関西地方に限れば35.4%と低い値が出ている
蕎麦切り自体は、保科正之の高遠そば、仙石政明の出石そば、本山宿における大名への献上記録、将軍家に献上された武鑑の記録などから身分の高い人物でも食べるものになっていた。
しかし、江戸時代の蕎麦屋は庶民のための店であり、武家や公家などの間では人目につく蕎麦屋で外食する機会がなかった。
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