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「もう一生、入院なんてしたくない。」
退院したらnoteが書けなくなってしまったのですが、なんとか生きてはいます。
入院を繰り返さないためにも、このnoteはどうしても書いておこうと思い、思い腰をあげて書いてみました。
視神経脊髄炎という指定難病になり入院していましたが、昨年中には退院し、今年1月から復職ができています。
家族や看護師さん、親友のななこ、主治医の先生、リハビリの先生、ヘルパーさん、薬剤師さん、職場の方々など、多くの方々のサポートと励ましのおかげで、ここまでくることができています。
入院生活は、想像以上に心身ともに辛いものでした。閉鎖的な病院という空間の中で、限られた娯楽とともに時間だけが過ぎていく感覚に苦しみました。
入院中、ある時治療にあたっていたもともと主治医だった医師から『痺れは一生治らない』というようなことを言われました。その医師は女性とのコミュニケーションが苦手なようで、回診時の会話もぎこちなく、他にも病気と向き合う患者の気持ちを考えない配慮に欠けた発言が多くありました。毎朝起きる度に「この痺れがなかったら」と強く願い、病気と必死に向き合っている私にとって、それはあまりにも耐えがたいものでした。強い怒りを感じ、結果的に主治医の先生を変えてもらうことになりましたが、今思えばそれは自分の治療に向き合う上で必要な決断だったと思います。師長さんや担当の看護師さん、リハビリの先生からはフォローをしてもらったけど、怒りはとても収まらなかったです。
一方で、脳神経内科の看護師さんや薬剤師さんは、大阪らしい距離感の近さで接してくれました。まるで10年来の知り合いであるかのような親しみのある関わり方で、辛い入院生活の中で何度も笑顔をくれる存在でした。だからこそ、リハビリ専門の階に移ることになった時は本当に寂しく感じました。
退院1ヶ月前、倒れてからずっとお世話になってきた脳神経内科の看護師さんや薬剤師さんとお別れしてリハビリ専門の階に移ることになり、そこでの生活が「もう入院したくない」と強く思わせてもらったきっかけでもあります。
朝から晩まで隣のベッドから70代の少しボケたおばあちゃんに大声で話しかけられ、「もっといい病院知らないか」「あんたのところは主治医が毎日来るけどうちはなんで来えへんねん」「(もう飲んでるのに)薬が来ない」と、延々と病院への不満を聞かされ続けました。頻繁にナースコールを鳴らしては看護師さんやヘルパーさん、先生に怒鳴り散らす様子を見るのも、とても心が痛みました。病棟では電話が禁止だったにもかかわらず、ずっと大声で電話をしていて、その声が響き渡る環境は、想像以上に心身を消耗させるものでした。
そんな中でも救いだったのは、リハビリの先生が気分転換も兼ねて、大阪城公園までお散歩に連れて行ってくださったことでした。紅葉の美しい公園を歩きながら、世界中からの観光客で賑わう景色を眺めていました。まるで自分も旅行に来ているような気分になれる時間は、閉鎖的な病棟生活の中での貴重な癒しでした。
退院の日、母と兄が迎えに来てくれました。主治医の先生は、これまでの治療経過と今後起こりうる再発のリスクについて、時間をかけて丁寧に説明をしてくださいました。脳神経内科でお世話になった薬剤師さんも顔を見に来てくださり、脳神経内科の看護師さんたちに挨拶に行った時には、私の回復した姿に驚いて喜んでくれました。
特に心に残っているのは、リハビリ病棟でよく話しかけてくれていたヘルパーさんが最後に伝えてくれた言葉です。ヘルパーさんは『私も指定難病持ちで同じ薬飲んでるねん。20歳まで生きられへんって言われたけど、今46歳やで!息子は今年20歳!やりたいことは諦めなくていいからね』と、ご自身の経験を通して励ましてくれました。その言葉を思いだす度に、今でも少し泣いてしまいます。
退院に向けて必死でリハビリに取り組んだ理由のひとつは、親友のななこがドバイで働くことが決まり、その出発前に「必ず会いたい」という強い思いがありました。その目標を主治医の先生とリハビリの先生に伝えると、「そこを目指して頑張ろう!」と言ってくれて、辛い治療やリハビリを乗り越える力になりました。ななことは、退院したら伊勢神宮の近くにある、物事を良い方向へ導く"みちひらき"の神様がいる『猿田彦神社に行こう』と言っていましたが、主治医の先生から体調を考慮して遠出は控えるように言われ、その代わりに『住吉大社ならまだ近いから』と主治医の先生に許可をもらうことができました。その帰りには、20代前半の頃に職場でお世話になった、母のような存在のなおこさん夫婦が営むカフェ「青燈」にも立ち寄りました。大切な人たちとたくさんのことを話して、大爆笑しながら過ごせた時間は、かけがえのない思い出となりました。「青燈」は知り合いがやっているからという理由がなくても、おすすめできるカフェです。以前Instagramに投稿したもの。
今は毎朝、自分でみそ汁を作ることが日課です。温かいみそ汁を飲みながら一日を始められることが、ちいさな幸せであり、同時に日常を取り戻せた実感となっています。
日々、働けることの喜びを感じながら、新しい生活リズムに少しずつ適応している段階です。体調の波と向き合いながら、ご迷惑をおかけすることも多くある中で、できることを必死に取り組んでいます。
焦点が合わなくなった視覚には、特殊なプリズムレンズの眼鏡の助けを借りています。周囲の方々の配慮とサポートには感謝しているものの、ヘルプの出し方が下手で、まだまだ仕事のペースを掴めずに悩む日々が続いています。
後遺症の影響は今も続いていて、疲れやすさや手の痺れ、震えがひどい日があります。時々しゃっくりが止まらなくなることもあり、体が硬化したような不思議な感覚に悩まされることもあります。
ステロイドの治療で顔がまんまるになってしまったこともコンプレックスです。エステティシャンの義姉が、顔や体のむくみをとってくれる炭酸のマッサージフォームをくれました。そのマッサージフォームをしている日は、少しむくみがマシになる気がします。
薬の影響で、ふらつくこともまだあります。気分の浮き沈みも激しく、カウンセリングに通うことも考えています。生魚やグレープフルーツが食べられなくなり、好きだったルイボスティーも飲めなくなったことも、日常生活での小さな変化のひとつです。
とはいえ、実はこの間、藁焼きのカツオは食べました。(半生の魚)なんとも、なかったです。笑
外出先も限られてしまい、以前のような行動範囲とはいきません。
都市部に住んでいることもあり、行動範囲が狭いながらも、入院中に作った「退院したらやりたいことリスト」を叶えながら、近所のお店の良さを再確認して過ごせています。
主治医からの言いつけを破ることもたまにあります。
「人が大勢いるところには行かないように」と言われていましたが、ありえない人で溢れかえる阪神百貨店のバレンタインフェアに友だちと行きました。プレゼント用のチョコをサクッと買って、阪神百貨店やLUCUA1100など、私たちはいろんなパン屋さんに夢中になって買い物をしました。疲れて、カフェに入ろうとしても人の多さでなかなか良いカフェが見つからず、彷徨ってしまい、流石に酷く疲れました。でも、久しぶりの梅田はとても楽しかったです。何かの病原菌などをもらうことなく、ラッキーでした。
こんな変わってしまった私にも、病気や薬のことを詳細に話しても、心地よい気遣いをしてくれて会ってくれて、いっしょに楽しい時間を過ごしてくれる友だちがいることは、感謝しても仕切れないです。
主治医の先生に話すと「そんなレアポケモンみたいな人いるのね」って言われました。ありがとう、ひとみさん。
ドバイに行ってしまったななことも、すごい大量のLINEを週に何回も送り合って、近況を報告しあっています。私にとって大事な時間です。ドバイでの新生活、大変そうだけど、適応しているななこには尊敬しかありません。
入院前のなんの制限のない状況とは違い、今の体になってしまった自分に慣れていく過程で、体調管理の大切さを日々痛感しています。
どんな経験も大切にしながら、一歩ずつ前に進んでいる最中です。
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