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愛されたかった私から愛したい私になる~感覚を感じて時々考える日々~


私が体験した成育環境での被害者意識や愛情不足感に固定してしまった視点からは、長年条件つきの愛情だったと見えましたし、そう思えていた両親なりの愛情表現を、両親から私へ対しての視点では実は無条件の愛情だったと捉えられると気づき、そう感じる事が出来て、受け取れた私は、喜びを感じました。
これからは、私が愛を返していく番なのではないか...と思いました。
両親への無条件の愛、どうやったら返せるのだろう...と思いました。


こう思えたのには理由がありました。
少し遡り、3月のある穏やかな天候の日でした。
幼少期からずっと持ち続けていた心の中心の捻れが解けた後日、内側の私が、長い年月、私が傷つかないように、私が生きられるように、全力で守って来てくれた事を思うと、なんだか嬉しくなって、自分が自分に恋をしたような気持ちになりました。
以前は、そんなふうに思った事はなかったのに、温かく優しい気持ちで、自分が愛しくて好きだな...と思い、幸せを感じました。
こんな心地よい気持ちを感じるなら、もう一度、私に生まれてもいいな...と。
今まで辛く苦しい事が本当にたくさんあったけれど、もしも生まれ変わるなら、また私に生まれたいかも...と、本当に初めて、生まれて初めてそんなふうにまで思いました。
Mrs. GREEN APPLEのケセラセラが心境にぴったりで、その時リピートして聴きました。
過去は、真逆でした。
もう二度とこんな私に生まれたくないと思った時が何度もあった私だったので、そんなふうに思った自分にとても驚き、驚きながらも本心でそう思った事を素直に嬉しく思いました。
そして、今、こんなふうに思う、この私に、この命を繋いでくれたのは父親と母親なんだと。
どんな2人でも、2人は私の両親なんだと。
2人がいなかったら、私は今、ここにいないと。
2人がいたから、私は生まれて来れたんだ...と。その事実を深く感じました。
2人との事で、心身病む程に、本当に悩み苦しんだ今までがあった事を思い出しました。
でも、その今までがあったから、今があって、今の私がここにいる。.......
そう思ったら、両親2人には、ありがとう...と、心から感謝の気持ちを感じ涙しました。
この時、この瞬間、気持ちを感じきったと思います。
(ただ、これからこの先、この気持ちを持って過ごせると心安らかに思った直後、短時間で、気持ちが移り変わっていきました。
まずは自分に優しくし、継続して、自分と向き合い続けて、心から自分を大切に愛して、愛しく思う気持ちを感じられたからこそ、両親への感謝の気持ちが湧き上がったのに、ひと時後には "両親はこんなふうには私を大切にしてくれなかった" という気持ちが自分の中から自然に湧き上がってきました。
ほんの数時間前に、両親への感謝を本心から感じたばかりだったのに。
あんなに両親への感謝を感じたのに、両親への、また、この感情を感じるなんて...どうして...、と戸惑いました。
両親への気持ちは、昨年秋に整理出来たと思っていました。ですが私の中に、まだ両親に対しての未完了の感情が残っていた事、癒しきれてない本音本心があると気づき、この後日、再度の向き合いとなった為、短時間で変化した気持ちについては書けずにいました。再度の向き合いが、前回の記事です。)


この、短時間でも、両親への感謝の気持ちを今までで1番心深く感じる事が出来た事で、その後から今日までの間、日常を暮らしながら、両親の事を冷静に見つめられる私がいました。
両親へ、私が返せる無条件の愛。どうやったら返せるのだろう...。

(成長過程の経緯上何も出来なかった、して来なかった私が)、両親に、愛や感謝を返したいともしも伝えたなら、両親はどう反応するのだろう...と、そう考えた時、誰かに返しなさいと、両親はそう言うような気がしました。
買いかぶり過ぎかな?とも思いました。でも、なんとなく、自分達にではなくて、誰かほかの方に返したらいいと、なぜかそんなふうに言うような気がしました。

なので、今、私に出来る事は、考え過ぎず、目の前の事に集中して生きる事だと思いました。
目の前の自分の生活に集中して、まずは自分のために生きて、そしてそれが誰かのために生きる事になるはずと、信じる気持ちになりました。
新年度が始まり、同時に勤務日が増えました。
色々考え過ぎず、考えるよりも感覚を感じて生きたいと思った私には、タイミング良く有り難い事でした。
なるべく余計な思考を挟まないで、
気持ちと言動が一致して暮らす事。
無理や無茶な動きをするという事ではなく、自然体で潜在意識に任せて生きるという事。
そうやって過ごす中で、何かに行き詰まりネガティブな気持ちになった時は、そこにまた何か私の思い込みがあるサインだと思い、その都度、静かに向き合い、受け入れ、過ごす、を継続しました。
きちんと向き合って、咀嚼し、消化する事が出来ると、乗り越えて、そう繰り返す毎に日々は軽く楽しくなった気がしました。

バランスを意識して、以前のように自分が枯渇しないように、自己犠牲に偏らず、私も心地よく、相手が愛してほしい愛し方で愛する事。
相手にとって無条件に相手を愛する事。
相手の心情、状況、環境を汲むこと。
誰に対しても、相手が今してほしい事は何かな...。相手が今必要としている事はなんだろう...、という視点で見て接してみようと思いました。
意識して自分の目の前の事に集中しながら、ゆっくり焦らずそう努めてみようと思いました。
まわりからの愛も受け取って、自分とまわりを愛する事と愛される事、そのバランスを保った中で日々そうして生きる事。
そうして生きる日々は、楽しく感じました。
継続するよう努力する事で、日々がより楽しくなるかもしれないと思いました。


人と関わる時は、自分以外の波動と関わるという事だと感じました。
我が子でも、義父母でも、上司同僚も、慣れ親しんだ間柄でも、両親も、1人1人波動は同じではない。でも誰もが愛する大切な存在だから、私の波動を合わせる必要性を感じました。
もちろん波動の違いは上下とか優劣という事ではなくて、個々の違いという事です。
愛する人達と関わる為の方法、私自身の心地よい範囲内を保ちつつ合わせられる波動に合わせる。
周波数を合わせるとも言える。相手の周波数と私の周波数を合わせる感じ。ぴったり同じにはならなくても、通じ合える位にはなれる、そう思い、今回はこの表現が合う気がしました。
必要な時に、私の波動、周波数を合わせる意識をしての暮らし。
どの視点から見てどう感じるか、どの周波数に合わせて感じるかで、気持ちは変わると思いました。
常に前向きで心地よく居られる日ばかりではないし、体調やホルモンバランスに左右される日もあるので、本当に無理なく。
その時相手が何を望んでいるか察したり、わからなければ直接聞いたりして、私も心地よく返せる範囲で相手に合わせて言動を返す。それが今の私が行える愛し方。
出会い、共に話して、共に考えて、共に笑って、別れる。そういう愛し方は、自分も心地よく、相手への押し付けにもならないんじゃないかなと思いました。


感じる事を優先して、そして時々、気持ちと時間に余裕がある時に、深く考える事を楽しむ。
そんなふうにしていたら、私の中に一定のラインが出来て、煮詰まる事は考えなくなっていました。
4月後半のある日、目覚める事、飲食出来る事、動いて行きたい場所へ行ける事、お店に入ると買いたい物がある事、買える事、移動出来る事、帰宅してゆっくり出来る事、お風呂に入れる事、眠れる事、感覚で感じられる事、本当に全て命があって今生きているから出来て感じられる事。
当たり前にある全部に感謝が湧いてきました。
当たり前にある日常ですが、当たり前の事は当たり前ではなくて、特別な事だと思いました。
年齢も重なってか余計に涙もろくなり、いちいち涙ぐみ拭いている、そんな日でした。

相手の愛してほしい愛し方で愛する事。
この先私は、私が両親を愛するフェーズなのかもしれません。
たぶん本当の意味での親の愛を知らず感じられずに育った私の両親。その2人を私は愛せるのだろうか、そしてどんなふうに? と思います。
書いていて、そもそも愛してる事を思い出しました。
でも血の繋がった家族と言えども、両親は同じ宗教以外の人との交流を避ける傾向があるので、無理には関わらない今の距離感が今は適切で、お互い心地よいのだと思っています。必要な時にはきっと連絡が来るはずだと思います。
私が私の人生に集中していれば、きっと然るべきように物事は流れると、委ねています。


過去生きづらく私はもう息が出来ないと思った頃の世界と、自分と向き合って自分の内側の認識を書き換えて知る事が出来た心が呼吸出来る世界。
そのどちらも本当で、どの時も大切で、グラデーション部分もある中、私は思い込みを書き換え続ける体験を経験して、自分の心のニュートラル地点を少しずつ変更出来たように思います。(そしてまだ途中なんだと思います。)


目の前の事に1つ1つ取り組んでいた結果自然に訪れた変化でしたが、そう変化した事で、
私が思いたい方へ、理想へと偏っていると感じられるかもしれません。そうかもしれません。
でも、私自身も体験して感じた心身の虐待は容認出来ないという気持ちは変わっていません。それにより傷ついてしまった(しまっている)心をなんとかしたい。その気持ちは変わる事なく、私の心の置き所にずっとあります。
ただ両親への気持ちは、記事に書いてきたように私の中では整理が行えた気がしています。
この命を繋いでくれたのは両親という事実。辛い体験は捉え直して、乗り越えて生きていく事を私は選びたいと思いました。
本当に、物事は人それぞれ、その時その瞬間の捉え方、考え方があって、善悪も正誤も優劣もない事。私も過去から一昨年までは、今とは全く違う気持ちでした。
向き合うタイミングもそれぞれで、きっと最善で最適なタイミングがあるのだと思います。
向き合ってどう生きていくのかも、向き合うかどうかも、個々の思うように、心から自由に決められる事だと思います。
感じて考えるタイミングが私は昨年訪れて、今尚向き合い続ける期間になっています。



プレゼント /
Dragon Night / SEKAI NO OWARI




長くなってしまい申し訳ありません。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。






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