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『月の沙漠の曽我兄弟(3)』

 恵比寿の串揚げ屋の個室で、工藤祐介は経理部の梶原景一と向かい合っていた。二人の前には冷酒が満たされたガラスのとっくりと、何本かの串揚げの載った皿と、北海道で獲れたというホッケの干物が置かれていた。これまで、すでに刺身や煮物を平らげ、酒の酔いも随分と回っている。しかし、良い気分なのは取締役の工藤ばかりで、経理部の梶原は顔面蒼白で今にも嘔吐してしまいそうな面持ちだ。

 それを上目づかいに見た工藤は、口の端を曲げて嘲笑を零し、梶原を見つめたまま、酒を満たしたガラスの猪口をその口元へと運んだ。

「これまで、やってきたことを変わらずやるだけで、何も怯えることはないだろう」

 まるで他人事のように工藤が軽率に言ったので、梶原は声を裏返して食いかかった。それはまるで、逃げ場を失った鹿が、頼りない角を相手に向けて、決死の覚悟で猛獣に突進していく時のような悲鳴に似ていた。

「会計監査なんですよ!?税務署が来るんです!洗いざらい、調べられるんですよ!」

 梶原はこの店に呼び出されて酒などを飲むつもりなどなかったが、工藤が無理強いをするので、仕方なく最初の一杯だけを啜った程度だった。でも、僅かな酒でも自分の身を脅かす、いや会社の存続すら危うくする事態に怯え、その酔いを全身に駆け巡らせた。梶原は見る見ると心拍を上げて、顔を真っ赤にした。しかし、緊張が絶頂をむかえて弾けてしまうと、あっという間に血の気を失って、死人の形相になってしまった。

「あなたは平気なんですか?これまでの横領が白日にさらされるんですよ?」
「平気も何も、それはお前がやったことだろう?」

 自動車のブレーキは急に踏むとタイヤがロックするんだとか、つばめが低く飛んだ翌朝は雨が降るんだとでも言うように、工藤は平然とした顔で梶原に言った。

「本気でおっしゃっているんですか?そうやって逃げたところで、こんな大それたことを私一人でできるとお思いですか?」
「できるも何も、さっぱり数字に疎いオレにこそ、そんな面倒な帳簿の操作なんてできないだろ。それに、オレは取締役で、お前は……」

 そこまで言って、工藤は言葉を切った。その先を、梶原に言わせようとしているのだ。

「経理……、ぶちょ……」
「なんだって?聞こえないなぁ」

 工藤はわざとらしく耳に掌を添えて、聞こえないふりをした。

 そのポーズをとったまま、工藤が身を乗り出してくると、恨みつらみをぶつけてくるお岩から逃れる伊右衛門のごとくのけぞって、梶原は悔しそうに「経理部長、です……」と唸った。

「オレは来年で定年なんだ。きれいさっぱりと、有終の美を飾らせてくれよ」
「あなたは、平井プリントにいた時も横領をしていて、それが明るみに出て左遷させられたのではないですか。さらには、その後、行き場のなくなったあなたに温情を与えてその身を拾ってくれた伊東パッケージの社長まで裏切った」
「裏切ってなんかいねぇよ。伊東の親子が少しお人好しだっただけだ。会社はなくなっちまったが、社員は平井プリントに拾えてもらったわけだし、うちはうちで、手土産に持ってきた伊東の技術で業績を伸ばせたんだ。あの一家が路頭に迷っちまったのは申し訳なかったが、それ以外はいいことだらけじゃねぇか」
「そんな言い草、酷いじゃないですか」

 手負いの身となった梶原は、自分の理性をこえて腹の中にたまっていた思いを抑えることができなくなっていた。

「お前、いつからオレにそんな口のきき方をするようになったんだ。お前だって、随分いい思いをしただろう」
「そんなもの、何とかして返していきます。あなたが懐に入れた金に比べたら、スズメの涙ほどの金ですから」
「おぅ、分かった。密告するんだな。それもいいだろう。だがな、オレはお縄になったところで一人身だし、金は誰の手も届かないところに置いてある。ムショだって、衣食住付きで家賃は皆様の税金だ。出所したら、東南アジアのどこかの島で、悠々自適に暮らすよ。それに比べてお前はどうだ。もちろん背任で会社を辞めなきゃならんし、その年じゃあ再就職も厳しいだろう。なにしろ前科がつくわけだからな。それに、父親が犯罪者になっちまったら、子供も学校に行きづらいだろう。そのスズメの涙というやつで、新しい土地で新しい暮らしを始められるんならいいが、計算の苦手なオレの頭で勘定しても、お前の取り分じゃあ、それも難しいんじゃないか?」
「あんたって人は……」

 梶原の青い顔が、再び見る見ると赤くなっていった。

 それでも工藤は涼しい顔で、冷酒を口に運んでいる。

「だから、お前の腹次第なんだよ。全部。何て言うんだっけ?こういうの。呉越同舟か?いや、毒食わば皿までってとこか?」

 そう言うと、工藤はカッカッカと高笑いをして、座椅子の背もたれにのけぞった。梶原は赤い顔をしたまま、必死で涙をこらえていた。

『月の沙漠の曽我兄弟(4)』につづく…。

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