『月の沙漠の曽我兄弟(5)』
大吾は引き続き和田義男の担当を続けていた。
その日も遅れている原稿の催促のために和田の家を訪れていた。
大吾はいつものようにインターフォンをたて続けに三度鳴らして、勝手にドアを開いて家に上がり込んだ。
「おじゃまします」
その声は奥の書斎にまで届かない。家政婦がいるわけでもないので、誰からも返答がない。
和田には妻がいるが、随分と長い間別居状態にある。本人が言うには決して仲違いしているわけではなく、それぞれの生活パターンを尊重するためらしい。その証拠に、週末には一緒にしゃぶしゃぶや寿司を食べに出かけているのだと、子供が満点のテストを自慢げに見せびらかすように、高級レストランの領収書を大吾の眼前でひけらかしたりした。
一階の奥にある書斎の扉をやはり三度ノックして、大吾は扉を開いた。しかし、いつもその奥の執筆机にいるはずの和田の姿はなかった。ほどなくして「そっちじゃないよ」とかくれんぼでもしているかのような呑気な声が、居間の方から聞こえた。
和田の書斎を出て、木板の壁の廊下を歩いていると居間の方から仄かに管楽器の音が聞こえてきた。和田はジャズを好んでいた。
(執筆もせずに、呑気に居間で音楽鑑賞か……)
大吾は佐々木編集長の渋い顔を思い浮かべながら、肩を落とした。
「また、休載のつもりですか?」
居間に入りながら、大吾は強がって部屋中に響くような声で和田をけん制した。和田は三人掛けソファーの上に仰向けになって週刊誌を読んでいた。その悠長さは無神経で図々しく、編集長に脅されまくってきりきりと胃を痛めている大吾を苛立たせた。しかし、その後思いがけぬ言葉が耳に届き、大吾は拍子抜けした。
「書いたよ」
「え?」
いつものパターンなら、へらへらと諂うように笑いながら、締め切りの延長を迫ったり、酷いときには休載の要請をしてきた和田だったが、この日は思いがけず、こちらの要望に応えていた。それでも、締め切りはとっくに過ぎているのだが。
「書けているってことですか?」
大吾は改めて、和田に尋ねた。
和田は読んでいた週刊誌を閉じて、いたずらを企んでいる子供のように半笑いで大吾を睨みながら「だから書いたと言ってるだろ」と言った。
大吾は踵を返して居間を出て、再び和田の書斎に入った。机の上を見ると、パソコンのラップトップは閉じられていて、その上に原稿を入れるための防水性のビニールバッグが置かれていた。中を覗くと、文書データが収録されているとみられるCD―Rも収められていた。大吾はそれを手に取り、居間に戻った。
「どういう心境の変化ですか?」
小説家と編集者の長い付き合いの中で培った関係性の中で言える、最大限の嫌味を大吾は和田にぶつけた。和田は体を起して、ソファーに座り、ローテーブルの上に置いてあったマグカップに手を伸ばした。
「機は熟した……、ってとこかな」そう言って、和田はマグカップを口に運び、その中に入っていたコーヒーを啜った。「まごまごしてられないと思ってね」
「まごまご?」
「ああ、これ見てみなよ」そういって、和田は傍らに置いてあった週刊誌を手に取り、大吾に向けて放り投げた。「たぶん、佐々木編集長も今ごろ大騒ぎしているんじゃないか?」
受け取った週刊誌の表紙を見つめ、大吾は編集者として培った眼で、表紙を埋め尽くす活字の中から和田の言う「大騒ぎ」に相応する言葉を拾い出した。
メインのトピックは政界の文書改ざん問題だったが、その見出しのすぐ隣に、驚くベき文言が書かれてあった。
『現代に蘇る源平の戦い!源田印刷にはびこる闇!』
大吾は震える指で週刊誌をめくり、その記事をざっと斜め読みした。
するとそこには、印刷業界のトップに君臨する源田印刷が、その当時の最大勢力だった平井プリントを攻略すべく、その内部の重役を操作して大きな損失を与え、下請け業者の技術を盗ませ、一気にトップに躍り出たのだと、書かれていた。恐らく続報を用意してあるのだろう。今の段階ではその下請け業者の名は「I社」と伏せられていたが、それは明らかに大吾の祖父が創業し、父の三郎が育てた伊東パッケージのことに違いなかった。そういえば、和田は新聞記者上がりの小説家だった。彼が残した作品の半数は、銀行やエネルギー開発の裏側を暴いた作品だったことを、大吾は思い出した。
「オレも、この件をずっと追っていたんだ」和田は両手でマグカップを包み込むように持ったままソファーの背もたれに体を預けながら言った。「そのせいで今まで連載の書き上げが遅くなっちまったことは謝る。すまなかった。だが、このルポルタージュを書きあげたら、おたくから出版して、儲けさせてやるよ。どうだい?いい話だろ?曾我大吾君。いや、『河津大吾君』と呼んだ方がいいのかな?」
和田の言葉に大吾は体を強張らせ、内に秘めていた野性を蘇らせた。そして、獣が獲物を狙う眼で和田を睨んだ。
「お、いいねぇ。やっぱり三郎さんの次男は、その眼でなくっちゃ」
和田は、いつものように口を半開きにしたままへらへらと笑っていたが、その眼の奥には自分と同類の野性があったことを、大吾は見逃さなかった。
『月の沙漠の曽我兄弟(6)』につづく…。
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