『月の沙漠の曽我兄弟(11)』
〈前回のあらすじ〉
源田印刷の経理部長である梶原景一が飛び込み自殺を図ろうとしていたところを救った純一は、その足で向かった和田義男の家で弟の大吾と再会をした。長く音信不通だった二人は、互いに工藤への復讐を諦めていなかったことに胸を熱くした。
11・決戦
夕方、営業部に戻ると、すぐさま純一は営業課長に呼ばれた。
「待っていたよ。悪いが、すぐ人事課に行ってくれるか?」
「人事課?」
純一は包装部の横田と共に、伊東パッケージのファイルやそれを作成した河津三郎という人物について詮索したことを、やはり上層部の誰かに知られたのだと、察した。
「エースのお前が下手を打つとは思えないが……」と前置きをして、課長は渋い顔をした。「用件はよく分からないんだ。まあ、とにかく行ってくれ。何しろ取締役も同席するって言う話だから」
取締役?工藤祐介が直々にオレを呼び出したのか?まさか、オレが河津三郎の息子であることがバレたのではあるまいか?そう思うと、純一は身震いを止められなかった。
(いよいよ、決戦か。しかし、もう後には引けない)
心の中で、純一は覚悟を決めた。
専門学校へ進学していたはずの大吾が、思いがけず北条出版に就職をしていて、和田義男という味方をつけて着々と工藤を追い詰めていたことを知ったばかりだ。そこに経理部長の梶原の力を借りて、工藤の悪行を暴くルポルタージュを世に出す準備も整いつつあった。
しかし、もしもここで、全てが工藤に知れてしまえば、狡猾な工藤はまたあらゆる手を使って、自分の行いをうやむやにしてしまうだろう。それに、工藤は間もなく定年を迎える。定年退職して、平然と源田印刷から多額の退職金まで受け取り、国外にでも高跳びされれば、もう曾我兄弟には手の打ちようがなくなってしまう。
エレベーターで社屋の五階に着くと、純一は人事課のフロアに足を踏み入れた。すると、純一の姿を見つけた女性社員が、純一を応接室へ案内した。
人事課のフロアに、虎子の姿が見えなかったことに、純一は狼狽えた。やはり、横田の問い合わせを受けた人事課の社員は虎子だったのかと。
応接室に入ると、応接セットの一人掛けソファーにそれぞれ座っている取締役の工藤と人事部長の畠山が純一を見上げた。
「終業間近だというのに、呼び出して悪いね」
そういって、人事部長の畠山が掌を差し出して、三人掛けソファーの空いてる席に着席を促した。
そこには、包装部の横田と人事課の虎子が先に座っていた。
(やはりな……)
純一は小さくため息をついた。
ソファーに歩み寄ると、二人が心細そうに純一を見上げた。純一は瞳の中で二人に向かって(心配するな)と語りかけ、ソファーに腰を下ろした。
純一と肩を並べた虎子は、細い指でそっと純一の膝に触れた。純一は正面を見据えたまま、静かにその手をとり、ひっそりと、だがしっかりと、それを握った。
三人が居住まいを正すと、ゆっくりと三人を見わたした畠山が口を開いた。
「君たちが、社内の情報を個人的に詮索し、流用しようとしている疑いが挙がった」
やはり、伊東パッケージのことを調べていた件が明るみに出たのだと、純一が苦い顔をした。
「それって、個人情報保護や情報漏洩、いわゆるコンプライアンスの順守に抵触するのではないのか?」
苛立った様子で工藤が口を挟んだ。
「流用なんて、していません」
横田が息巻いて叫んだ。恐らく、虎子と共に純一がくるまで応接室で待っている間にも、しつこく工藤に責め立てられたのだろう。
「君は包装部なので、業務に関するデータを閲覧できる立場にある。だが、その情報に関して、人事課に問い合わせをするのは、行き過ぎた行為なんじゃないか?」
畠山は冷淡にそう言った。入社式の後、食堂で和やかに語り合った時の和やかさは微塵もない。
「それは、確かにそうですが、技術者として、どうしてもあのファイルの中にある緻密で美しい仕事をした人を知りたくなったのです。それが、今の我が社に貢献できることであれば、目を瞑ってくれてもいいじゃないですか」
横田は自分の保身よりも、技術者としての、あるいは芸術家としての矜持を主張していた。横田の誠実な反論を聞きながら、純一は頼もしい同期を持ったことを誇りに感じていた。
しかし、工藤が怒号を飛ばし、横田の主張を一刀両断した。
「そうはいかないだろう!」工藤はそう怒鳴ると、オールバックにした薄い白髪を皺だらけの骨ばった手でひと撫でした。「君がいくら有能な技術者だからと言って、会社の財産である資料を軽率に閲覧し、他課に漏らすなど、ありえない」
横田の主張にも肩を持ちたいが、工藤の言い分も正論ではあった。ただ、取締役直々に呼び出し、叱責するような案件とは言い難い気がした。やはり、その対象となったデータが河津三郎に関するものだったから、工藤も見過ごすことができず、これほどの大ごとになったのだと、純一は思った。
となれば、今こうして横田を追及しているのは牽制であって、最後には純一の素性を暴いてしまおうという魂胆があるのではないかと、純一は恐れた。
畠山は工藤について「あの人は金に対する嗅覚は敏感でも、人に対する嗅覚は鈍感だからな」と言っていたが、手負いの獣ほど恐ろしいものはないという。週刊誌で源田印刷のことがすっぱ抜かれて、工藤の尻にも火が付いたのかもしれない。
「そして、君は内線電話を受けて、その相手が本当に横田君かどうかも確認もせず、社員の個人情報を閲覧した。閲覧までは君の職権の範疇だからいいとしても、それを電話の相手に漏らしたことは、問題だ」
工藤は次に体格のいい横田と純一に挟まれて子猫のように身を縮めている虎子に矛先を向けた。
「はい、せめて、一度電話を切り、折り返すべきでした」
「『せめて』など、有り得ない!」工藤は再び怒鳴り声を上げた。「誰とも分からぬ相手からの問い合わせなど、そもそも拒むべきだったのではないか?」
そう責められて、虎子は瞼をギュッと閉じて、俯いた。多分、怯えて泣いてしまうのを必死でこらえていたのだろう
虎子の上司である畠山に怒鳴られるのならまだしも、いくら幹部とはいえ部外者の工藤に怒鳴られるのは筋違いでもあった。助け船を出してはくれないものかと、純一は自分の素性を知っている畠山を上目で見たが、畠山は平坦な表情のまま、時折腕時計に目を落としていただけだった。
「そして君!」そう言って、工藤は純一を指さした。いよいよ、自分が責められる番だ。「君は彼のそばにいながら、彼の行為を看過した」
そう言って、工藤は純一を指していた指を下ろすことなく、そのままその指で横田を指した。
「はい、今思えば、配慮が行き届きませんでした。申し訳ありません」
純一は慇懃に謝罪した。しかし、工藤の追及は続いた。
「そもそも、君たちは何を調べていたのだね?彼の話では、デザインやデータの作成者がこの社にいるかどうかを調べていたそうだが、本当かね?」
「はい、その通りです。横田はその作成者のスキルを絶賛していました。恐らく先ほど彼が申し上げた通り、その作成者がこの社にいるのならば、その方から直々に技術を教えてもらい、自らの仕事に反映させ、社の業務に貢献したいと考えたのだと思います」
「それは勤勉な考え方だが、このファイルとはもう関わらないでもらいたい」
工藤は冷淡にそう言った。
「しかし、このファイルは包装部の業務の基盤になっています。それが使えなくなっては、業務に支障が……」
再び横田が食らいついたが、すぐさま工藤に押し返された。
「何も『使うな』と言っているのではない、『関わるな』といっているのだ。今回のように、作成者を探そうとしないことだ。いずれにしても、この作成者はわが社にはいないし、生存もしていないのだからな」
工藤がそう言い捨てると、純一の体に電流が走った。
(『生存していない』だと?お前が殺したようなものではないか!)
純一の中に眠っていた獣が深い眠りから目を覚まそうとしていた。それは、和田や大吾が内に秘めている獣と同じ類のもので、残忍で、怖れを知らない凶暴な獣だった。
膝の上で固く結ばれた拳は震え、その爪が掌に食い込んで今にもその皮を破りそうだった。
工藤のテリトリーに囲われたままの純一に、その状況を打破し、形成を逆転する切り札は持ち得ていなかったが、まもなく和田が書きあげるルポルタージュがあった。それさえあれば、工藤の悪事を暴けるのだが、純一の中で暴れ出した獣は、今にも工藤に襲いかかろうと唸り続けていた。
「その、作成者は……」
やがて、理性で獣を抑えつけられそうになくなった純一は、夢遊病者のようにぽっかりと口を開け、ほとんど無意識のうちに言葉を紡ぎ始めていた。
「ん?何を言いたい。曾我?しっかりと話せ!」
純一の向かいにいた工藤が、純一を挑発した。純一の隣では、虎子と横田が、固唾を飲んで純一の発言を見守っている。
その時、ちらちらと腕時計を見てばかりいた畠山がおもむろにローテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを取り上げ、テレビの電源を入れた。
「では、取締役。彼らも反省しているようなので、この一件は落着したとして、ニュースでも観ましょうか」
本来の朗らかな笑顔を取り戻した畠山は呑気にそう言い、チャンネルボタンを操作して、目星をつけていたテレビ局の放送を写しだした。
「なに!?落着だと?そんな生温い対応でいいのか?」
平然と構えている隣の畠山に身体を向けて、工藤が食いかかった。
「あとは、私に任せてください。人事課で然るべき処分をします」
穏やかではあったが、威厳に満ちた畠山の言葉に、工藤は拍子抜けしたように押し黙った。
純一はそこで正気を取り戻し、慌てて喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。
(その作成者は、オレの父親です。あなたが見殺しにした河津三郎です)
そして純一は、虎子たちと共に右手の壁に掲げられたテレビを見上げた。
そこには、見覚えのある部屋が映し出されていた。
その部屋は、源田印刷の大会議室であり、画面の中央に並べられテーブルには白い布がかけられ、卓上には無数のマイクやICレコーダーが置かれていた。画面の右上には「激震!内部告発か!?源田印刷、粉飾決算!」とトピックの表題が張り付けられていた。
すると、体を捻ってテレビを見ていた十一たちの脇で、激しい物音がした。ふり返ると、慌てて立ち上がろうとした工藤が、脚をテーブルにひっかけて、床に転んでいた。横田が慌てて工藤に駆け寄り、その体を起こした。
「おい、畠山君。経理部長を呼んでくれるか!?」
工藤は唾を撒き散らし、口角からよだれを垂らしながら乱暴に叫んだ。しかし、畠山は恐ろしいほど冷淡に対応した。
「それは無理でしょう。だってほら、今から会見ですから」
そう言って、畠山は手に持ったリモコンでテレビの画面を指した。
すると、画面の右側から源田印刷の社長、源田頼一が現れ、その後を、幽霊のように生気を失った男がついてくる様子が映し出された。その男こそ、和田義男の家から帰社し、エレベーターホールで別れたばかりの経理部長、梶原景一だった。
工藤は、目を充血させ、片方の上着の肩を落とし、床に足を投げ出して座ったまま、呆然としていた。その傍らで横田肇が混沌とした状況に戸惑っていた。
「どういうことですか?」
テレビで放映されている源田印刷の記者会見に釘付けになっている虎子には気付かれないような小声で、純一は畠山に顔を寄せて尋ねた。すると、畠山は「これが、三郎さんの遺志だからさ」といって、ウインクをして見せた。
三郎は自分が亡きあと、自分の無念を晴らし、残した家族を守るよう、北条氏だけでなく、源田頼一の右腕であり、三郎の竹馬の友であった畠山にも遺言を託してあったのだろう。恐らく、北条出版の北条時治や佐々木高司、そこに寄稿している和田義男とも秘かにつながっていたに違いないと、純一は感激した。恐らくこうして純一たちを咎めたのも、工藤を応接室に足止めさせるための口実だったのだろう。
自分の父ほど年の離れた畠山のウインクは、とても不器用で誉められたものではなかったが、純一にとっては、ピンチになると颯爽と現れ、バッタバッタと問答無用に悪を退治する正義の味方のように見えた。
『月の沙漠の曽我兄弟(エピローグ)』につづく…。
〈あらすじ〉
祖父が興し、父が受け継いだ伊東パッケージの技術とデータを盗んで大手印刷の源田印刷へ寝返ったのは祖父のいとこである工藤だった。父は顧客を奪われ、経営難になった会社を立て直そうと奔走したが、力尽き、息絶えてしまった。残された二人の子、純一と大吾はやがて大きくなったら、祖父を裏切り、父を死に追いやった工藤への復習をしようと夕焼けの空に誓ったのだった。
曽我兄弟の仇討ちを描いた曽我物語の現代版。登場する人名や相関は、史実に則っている。
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