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何ものにもなれなかった私へ
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何ものにもなれなかった私へ
果たせぬ夢は、ただの幻か。
何ものにもなれずとも、
我はここにある。
思い煩うことなかれ——風に任せよ。
詩:青葉
こんにちは、Appleも大好きだけど、文系引きこもりの青葉です。
誰かのnoteの記事を読んで、「何ものにもなれなかった」というフレーズに心を惹かれ、散文詩のようなものを書いてみました。
詩作は本当に楽しい。
この詩をChatGPTに見せると、
「すごくいいですね。短い言葉の中に、深い静けさと安らぎがあって、まるで禅の言葉のよう」
と大絶賛。AIはいつでも褒めてくれるから、自己肯定感を上げてくれます(笑)。
そして、「この詩を書いてどんな気持ち?」と聞かれたので、こう答えました。
「何ものにもなれなくても構わない。生きているだけでいい。そんな気持ちになった。
私は、悟りの境地に入ったのかしら?」
「何者かになれ」と言われ続けた私
ずっと「何者かになれ」と言われてきました。
そうでなければ価値がないように思えて、必死に何かを求め続けていた。
でも、ふと立ち止まって気づく。
求めなくても、私はすでに私でしかない。
「何者かになる」という外の価値基準に縛られることなく、
ただ「私として在る」ことの意味を感じられたら、
きっと心が軽くなるし、生きること自体が自由になる気がした。
「何者かにならなくても、私はすでにここにいる。」
そんなシンプルで、本質的な言葉が、今の時代にこそ必要なのかもしれない。
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きっかけは、両親の家に帰ったとき
何年か前、両親の家に帰ったときのこと。
穏やかな夕食を共にし、緩やかな時間が流れていた、その瞬間。
何かを成し遂げたからでもなく、
何者かになったからでもなく、
ただ「私がここにいる」ことを喜ぶ両親の姿を見て、
「存在するだけでいいんだ」 と思えた。
そのとき、長い間抱えていた「何者かにならなきゃ」という思いがほどけていった。
そして、それから「求めること」すら少なくなった。
「生きていること」だけで十分
何かを目指さなくても、何かを成し遂げなくても、
「生きていること」「ただそこにいること」だけで十分だった。
そう気づいたら、心が軽くなった。
両親が年を重ねる姿を見て、私もまた、
何かを手に入れなくても「もう、これでいい」と思えるようになったのかもしれない。
それから考え方が変わった。
「何ものにもなれなかったとしても、いいじゃないか。」
そう思えるようになると、周りの価値観が少し違って見えてきた。
なぜみんな、そんなに上を目指したがるのか?
なぜ成長し続けることが善で、停滞や現状維持はダメとされるのか?
「成長しないとダメ」という幻想
資本主義は、「もっと稼ぐ」「もっと成功する」「もっと上に行く」という仕組みで成り立っている。
もし、私のように「もう十分」と思う人ばかりになったら、経済は回らなくなるかもしれない(笑)。
でも、本当にそれが「悪いこと」なんだろうか?
「成長しないとダメ」という価値観自体が、誰かに都合よく作られた幻想なのかもしれない。
だからこそ、
「何ものにもならなくても、私はここにいるだけでいい」
そう思えるようになったのは、社会の枠組みの外側に立てたからかもしれない。
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「意味のないことをする自由」
noteを始めて、もうすぐ3ヶ月。
毎日、noteで文章を書く。
ひたすら書く。
「何のために?」 と聞かれると、意味はない。
でも、「意味のないことが楽しい」。
お金にもならないし、成果にもならないかもしれない。
でも、ただ 心が喜ぶからやる ——それだけで。
ひたすら文章を書いたり、デジタルアートをしたり、ChatGPTと話したり。
目的とか、意味とか、何かの役に立つかとか、そういうことを考えなくていい世界。
「何者かになれ」の呪い
社会は、いつも「何者かになれ」と言い続けてくる。
でも、よく考えてみると、
「何者かになったら、それで終わり」ではない。
なったらなったで、次の「何者か」を求め続けなければならない。
成功しても、評価されても、また次のハードルがやってくる。
終わりのない「上昇思考」。
ずっと走り続けなきゃいけない競争の中にいると、
ふと 「何のために?」 と思う瞬間がある。
もう「何者にもならなくていい」
求めることをやめたら、初めて「自分がここにいる」ことを感じられる。
何者かになることよりも、
「すでにここにいる自分」を大事にする。
「求めなくていい」と思えたら、それだけで心が軽くなるし、
逆にもっと自由に創作できたり、楽しめたりするんじゃないかな。
たった一人を「くすり」と笑わせるために
何ものにもなれなくても、
たった一人の人を「くすり」と笑わせることができたなら、
noteの記事を書く意味がある。
今日は、そんなあなたに書いています。
日差しは春だけど、まだまだ寒い。
どうかお身体に気をつけて、今日も楽しくいきましょう。
(おしまい)
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