『少年ノート』感想文 “fluid”なジェンダーの可能性について思う
『少年ノート』(鎌谷悠希)感想文です。(タイトル画像は『少年ノート』8巻より)
鎌谷悠希さんの作品のコアには“セクシュアルマイノリティ”への視座がある、といつも感じています。
「LGBT」ではなく、セクシュアルマイノリティ、です。
『少年ノート』の世界にも、極彩色の世界がありました。
【『少年ノート』あらすじ】
天性の歌声、ボーイソプラノの才を持つ主人公の少年・ゆたかが、中学に入学し、合唱部に入るところから物語が始まります。
繊細な感性を持つ彼が「ソプラノの声を失うまで」の限られた時間で得たもの、彼の周囲の人間たちの成長や挫折や葛藤を描く、青春群像劇。
という感じです。
ちなみにサブタイトルは「Days of Evanescence」。
evanescenceとは、「消失、徐々に消えていくもの」というような意味だそうです。
(“evanescence”もまた、鎌谷さんの作品に通底している気がします)
以下、ネタバレ含みつつ書いています。
【「穰」というキャラクター】
穰、というキャラクターがいます。
主人公の兄です。
登場するまでに間もありますし、
表紙に描かれることすらない、脇役と言えば言えてしまう人物なのでしょうが
主人公が歌をうたうきっかけになり、
歌の才能を秘めた合唱部の仲間が歌をうたうきっかけになり、
主人公のよきライバルであり、世界で活躍している少年がうたうきっかけにもなった、
かなり重要な人物です。
穰の存在こそが、作品のコアだと言っても過言ではないのでは、と
私には思われるほど。
穰が象徴しているのは、たぶん「過去」です。
“すでに失った人”であり、
“すでにやめた人”であり、
“つづけ(られ)なかった人”であり、
“見逃された人”です。
そして、今も逃げ続けている人です。
すでに過ぎてしまって、もう戻れないからこそ
主人公やその友人たちの“消失”に一緒に触れることができる。
すでに“消失”を迎えていて
抱えていて、
抱えたまま、逃げ続け、歩き続けている人。
(『少年ノート』6巻より)
誰かに、責めるように「逃げるんですか」と言われたとき、
自信と、自覚と、意志を持って「逃げるよ」と答えられる心性を持つことは
なかなか難しいものと思います。
その特質を獲得した人物です。
そういうこたえもある。
そういう道もある。
そのことを示してくれるキャラクター。
もちろん、逃げても仕方がない、逃げられないもの・ことがある場合、
一緒にそれらとの付き合い方や向き合い方を探していこうね、
という寄り添い方が必要になること、あるかと思います。
主人公の母は主人公に対し、そのような姿勢を見せています。
本当は、その寄り添い方こそが理想であり、基本であるのでしょう。
けれど寄り添う人がおらず、“見逃され”る立場に立たされた人にとっては
自分から逃げる、という選択肢を持つことは
重要なサバイバルスキルになり得ると思うのです。
(『少年ノート』5巻より)
【穰にみる“fluid”なジェンダーの可能性】
私が「ジェンダーフリューイド」という言葉に出会ったのは、もう10年ほど前です。
私を表して、知人が言ってくれた言葉。
当時はよくわかっていなかったのですが、いまでは「たしかに、私である」と感じます。
よく見出してくれたものだ。
fluidとは、「流体」とか「流動的」とかいうような意味です。
ゆらゆらと動いていて、未固定で、可変性のある様子。
穰というキャラクターは、fluidを体現したようなキャラクターでもあります。
住まう場所、言動、あり方のすべてがふらふらとしていて、定まらない。
そうあることを、自ら選んだ人物です。
「もう歌わない」ということだけを決めていますが、
そのことすらも、やめようと思えばやめてしまう。
彼のジェンダー的あり方についても、未固定な存在として描かれている。
と、私は感じました。(あくまで私の感じ方です)
ここまで明確にジェンダー的側面を「定めていない」形で描かれるのは、
わりにめずらしいことでは、と思います。
こんなシーンがあります。
穰はオネエちゃんではなく「おにいちゃん」でありながら、
「おんな言葉」を使っており、スカートをはいたり、ハイヒールをはいたりします。
穰に対し、性自認に思うところのあるキャラクターが、こう問い掛けるのです。
「おにいさんは、女の人になりたいんですか?」
けれど、作中で返されていた言葉は
「おれの何を見てそう思ったの?」
というものでした。
「おんな言葉」や女装は、女性や女性になりたい人が使うだけのものとは限らない。
性自認と、その性“らしい”とされているふるまいをするということとは、同じとは限らない。
それは女(男)の人のものだと、誰が決めたの?
それは本当に絶対のもの?
それは本当に揺るがないもの?
その性“らしさ”の根拠のなさと、それらは選べる、選んでいいのだ、ということ。
“性規範”の、その枠組みを強力にグラつかせるものである、という点で
クィアであるとさえ言い得るシーンであり、存在だと感じました。
こんなにも特異で、重要な人物であるにもかかわらず
表紙にもならず、ただ去っていく。
徹底した“影の主役”っぷり。
そんなところもまた、大好きなのです。
かっこいいね!
……
このキャラクターについて、こんな風に書いてしまうのは野暮ってもんじゃないのか、などとも思いつつ
この作品のどこが、どんな風にすごいと思ったのか、
ちゃんと残しておきたいなぁと思ったのでした。
【『少年ノート』には魅力がいっぱい】
いろいろと書いてきましたが、そんなこんなは差しおいても
『少年ノート』はおもしろく、魅力的な作品です。
合唱が好きだったなぁという人は、それだけで楽しめる作品だと思います。
私も歌ったあの曲やあの曲やあの曲も登場してくれているんですが、
絵の魅力と合わさって、非常に懐かしく、キラキラした想いに浸れます。
宮下奈都さんの『よろこびの歌』が好きだった人なら、ストライクゾーンだと思います。
群像劇なので、いろいろなキャラクターがパート(巻)ごとの主役になります。
感情移入できるキャラクターが、きっといます。
たとえば、『精霊の守り人』シリーズ最終パートである『天と地の守り人』の、チャグムが“荷物を捨てた”シーンに熱くなった人には、部長をおしますよ。
大人たちもまた、魅力的です。
あの青春したい顧問も、未熟って自覚してかっこよくなった先生も、喫茶店のおじいちゃんも、カルメンのおねえさんも、「理解できない断絶」を知った、ウラちゃんのマネージャーさんも。
(『少年ノート』5巻より)
私は、カルメンのおねえさんがカルメンのおねえさんだったとわかるシーンで、いつも泣きます。
鎌谷悠希さんの作品の女性は、みんなしっかり生きている感じがして、豊かで、大好きです。
どんな人でも
いまの自分を自分で肯定してあげたくなるような、プレゼントのようなキャラクターたちがたくさんいますよ。
“らしさ”の規範を蹴っ飛ばしたい人。
自分をに折り合いをつけたい人。
取り戻せない消失や喪失を抱えた人。
現状に落ち着きどころを見つけたい人。
むかし子どもだった人。
そして、子どもでいられる時間を持つことが難しかった人。
「さよなら」できることや、なくした後のからっぽを、少しだけ愛おしいと感じられるようになるかもしれません。
(『少年ノート』6巻より)(ちなみに彼は主人公というわけではない)
全ての人に、オススメしたい名作です。
8巻までですでに完結しているので、その点でも読みやすい作品だと思います。
読書の秋に、ぜひ。
なお鎌谷悠希さんといえば、
私のツイッター上では『しまなみ誰そ彼』が話題でした。
「セクシュアルマイノリティ」「LGBT」などの言葉に対し、アンテナを磨いている人であれば
目にした人も少なくないのではないかと思います。
“クィア性”や“ジェンダーフリューイド(である様)”については
『少年ノート』こそ、際立って描写されていた(と感じました)が、
『しまなみ誰そ彼』もまた、名作です。
セクシュアルマイノリティ(とくわけ、同性愛者について)の描かれ方が非常にダイレクトなので、その点でも、今後が気になっています。
作中に出てくる“談話室”のような場所が
欲しくて、つくりたくて、
実際にそれっぽい場所をつくってみて運営していた身として、いろいろと思うところもありましたし。
みんな読もう。
『隠の王』は、
セクシュアルマイノリティに関する活動をしたりしていて、
そんな中で亡くした人がいる、という人には特に
非常に抉られる作品だと思います。
名作ですが、その点、覚悟が必要に感じます。
でも名作だから、こっちもみんな読もう。
お読みいただき、ありがとうございました。
おわり。