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[追悼(ついとう)・森村誠一先生の思い出~お付き合いが始まったキッカケとは]

森村誠一先生の訃報のニュースが流れた時、自分の目と耳を疑いました。

何度もテロップをながめてしまいました。

「信じられない」を連発し、ショックで座り込んでしまいました。

でも、そこには、気を取り直して、ウイスキーのオンザロックを作り、森村先生との出会いを思い出す自分がいました。

当時、日本史中心の月刊誌は、私が社長だった新人物往来社の「歴史読本」と秋田書店の「歴史と旅」が刊行されていました。

お互いにライバル関係でした。

ある日、「歴史と旅」が休刊するという知らせが飛び込んできました。

何気なく机の上にあった「歴史と旅」を取り上げ、目次をながめると連載欄に「虹の生涯」森村誠一の文字が、目に飛び込んできました。

「歴史読本」の編集長を呼び
「休刊になったら連載小説はどうなるんですか」と尋ねました。

編集長は「連載が中止になるなら、著者しだいですね。多分、書籍化しないでお蔵入りになるんじゃないんですか?」と答えました。

私は「お蔵入りはもったいないね。君、森村先生に電話してくれない」と頼みました。

彼は「何故、お電話するんですか?」と聞き返しました。

「いいからお電話して、先生がお出になったら、僕がお話しするから」と再度、彼に電話するように指示しました。

それから先生が電話にお出になった時、「一度、お食事をしたいのですが」とお話しすると先生は追って都合のよい日を連絡するというご返事でした。

編集長には、森村先生にお会いする目的は告げませんでした。

「歴史と旅」が休刊するから、「歴史読本」に先生の連載を移してもらう提案は、先生と一面識もなく、弊社と余り関わりがなく、連載を、それもライバル誌に移行するのは、無理ですと反対意見を述べることが、わかっていたからです。

出版業界は結構、慣習や業界の常識にとらわれることが、ままあることを他の業界の仕事に携わっていた私は感じていました。

先生とは、よく利用する紀尾井町にある中国料理店「維新號」で待ち合わせました。

個室を取っていたので、早めに「維新號」に行き、先生がおいでになるのをお待ちしていました。

先生はスーツに、少し大きめな黒い鞄をもって、部屋に入っていらっしゃいました。

まず儀礼的な名刺交換をし、席に着くと、先生は

「社長から直接、お電話があったので、少し驚きました」

「社長じきじきのお誘いなので参りました」

「今日は何のお話でしょうか?」とお聞きになりました。

私は率直にお話しした方がいいと思ったので

「先生、失礼があればお許しください。「歴史と旅」が休刊になるそうですが、先生が連載している小説は、どうなさるのですか?」とダイレクトな質問をしました。

先生は一瞬、戸惑いを見せながら

「まだ何も決めていません」とお答えになりました。

私は「私どもの「歴史読本」で引き続き、連載していただけないでしょうか?」

「連載時期、回数全て、森村先生にお任せします」とお頼みしました。

先生は即答してくれました。

「作家にとって、ありがたいご提案なので、喜んでやらせていただきます」

「実のところ、「歴史と旅」から休刊になるという知らせを聴いて、この作品に対する意欲が失いかけていたんです」

「社長のお言葉で、この作品を完成させる意欲が、また湧いてきました」

「ありがとうございます」と大作家の先生にお礼を言われてしまいました。

私も「ありがとうございます。」

「先生にそう言っていただけるとは、想像していませんでした」と言い、握手を求めました。

先生も「社長、これからもよろしく」と言って、かたく握り返してくださいました。

それから編集長も入れて、出版業界の話や世間話をして、楽しい時間を過ごしました。

帰り際に、先生は「社長、いつでも何かありましたら、この番号に直接、お電話ください」とおっしゃって個人の電話番号を教えてくださいました。

このことがキッカケとなり、先生とのお付き合いが始まりました。

森村先生は、大変、几帳面なお方で、気づかいが優しく、写真を撮るのが大好きな方でした。

弊社で毎年2月に開催していた紀尾井町「維新號」での、「先生方と弊社の親睦会」にも、次の年から参加していただきました。

親睦会は着席で、中国料理とお酒を楽しんでいただく会でした。

弊社がお世話になっている「歴史文学賞」の選考委員、主に時代小説をかかれる作家の先生を中心に、40名ぐらいの先生方が集まり、自分を含め10名ぐらいの担当者が出席しました。

主演業界では、作家の先生方が大人数、集まるのは、文学賞のパーティぐらいしかありませんでした。

それな立食形式なので、お互いにゆっくり料理をや会話はできません。

弊社の会は着席で、ゆっくりと美味しい料理が楽しめ、会話もすわってできるというので好評でした。

普段、顔をあわさない先生方も、この会でゆっくり会えるのも楽しんでいらっしゃいました。

先生方の間でも評判になり、出席する先生方は毎年増えていきました。

森村先生も宮部みゆき先生と同じテーブルにセッティングしたので、お名刺を交換して楽しまれていました。

その時の写真は、「森村誠一写真館」の2004年版に載せられています。

私も先生の写真館には、たびたびご一緒の写真が載っています。

改めて先生の「写真館」をパソコンで見ながら、森村先生のことを偲んでいます。

一つ森村先生のエピソードを披露したいと思います。

「親睦会」に私の妻も私と一緒に、先生と同じテーブルに座ったのですが、妻は外国人なので日本語よりも英語を話すのですが、宴もたけなわになって来た頃、先生は

「社長、お願いがあるんですが」と切り出されました。

私が「何でしょうか」とお聞きすると先生は

「社長、僕は英語がまだ上手に話せないが、1か月か2ヶ月、英語のプライベート・レッスンを受けて上達したら、奥様と社長をお食事にご招待します」

「その時は日本語は無しで、全部英語で話しましょう」と言われました。

私は
「先生、本当ですか? では。ご連絡お待ちしています」と答えました。

半分くらいは社交辞令だと思っていました。

それから1ヶ月ぐらいだってから、先生から連絡があり

「社長、いついつにお宅にハイヤーを回しますので、精進料理の「鵜飼亭」に奥様とご一緒に来ていただきたい」

「お約束通り、会話は全て英語でお願いします」と言われました。

私はびっくりしてしまいました。

森村先生は素敵な方だなとも思いました。

当日は迎えのハイヤーで先生、ご指定の場所に伺い、全て英語で会話をして、会食をしました。

先生の英語は短期間で上達されていました。

帰りには有名な「かりんとう」をお土産にいただき、やはりハイヤーで家まで送っていただきました。

会食中の森村先生の笑顔は、今でもはっきりと覚えています。

森村先生には可愛がっていただきました。

私が新人物往来社を離れてからも、お電話があり、出版業界では有名な文壇バー
「数寄屋橋」の恒例の夏祭りのイベントに出席しませんかとお誘いいただきました。

私が「先生、私は出版から離れているので」と丁寧にお断りすると先生は

「今回、僕が仕切って、挨拶もするので、社長も是非、出席してください」と
言ってくださいました。

「わかりました。喜んで出席させていただきます」とお答えしました。

当日も、いつものように出版業界の大物の方や常連の作家の先生方がお集まりになっていました。

クラブに入っていくと、森村先生は
「菅社長、こっち、こっち」と手招きしていただきました。

森村先生の席には「角川書店」の角川歴彦社長がお座りになっていました。

私が席に着くと先生は

「新人物往来社の菅社長です」と歴彦社長に紹介していただきました。

そして「数寄屋橋」のイベントが始まりを告げる森村先生の挨拶の中で

「今日は私の友人の新人物往来社の菅社長が、お見えになっています」

と紹介していただきました。

森村先生の心づかいに心を打たれ、涙が出るのを我慢するのが大変でした。

「数寄屋橋」の園田静香ママは出版業界でも有名な名物ママでした。

昔は、「数寄屋橋」にも先生方をお連れして、よく伺いました。

ここはママ以外のホステスさんは、副社長、専務、常務などと呼ばれるお姉様方がいる
他の文壇バーとは、少し毛色が変わった人気店でした。

静香ママとも、作家の先生と一緒に同伴のお付き合いもしました。

出版業界を去ってから、初めて伺う恒例の「数寄屋橋」のママ以下のホステスさんの踊りや寸劇を楽しみました。

森村先生は出版業界を去った後の私にも、気づかいしていただき、お世話になりっぱなしでした。

テレビの訃報を聴いてから、心にポッカリ穴が空いたようです。

森村誠一先生の「歴史と旅」から「歴史読本」に連載が移り、単行本になった「虹の生涯」~新選組義勇伝を、読みながら、森村先生のご冥福をお祈りしている日々が続きます。

森村先生は天国に行かれても、きっとカメラを片手に、沢山の写真を撮っていることでしょう。

先生のご冥福を心からお祈りして、ペンを置きます。


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