【書評】自由と偶然への祝福『喜べ、幸いなる魂よ』佐藤亜紀著
十八世紀、ベルギー。親が死に、亜麻糸商のファン・デール家に引き取られたヤンは、男女の双子と共に育てられることとなった。人付き合いはいいがどこか人生を諦観している少年テオと、並外れた天才で変わり者の少女ヤネケ。ある日、農園で兎の交尾をみていたヤンは、一緒にいたヤネケに、〈出来るか?〉と訊かれる。ヤネケの好奇心に付き合うように、ヤンはヤネケと交わり、いつしかヤネケはヤンの子を身籠もる。ヤンはヤネケと所帯を持つことを望むが、ヤネケは子どもを産むだけ産むと、生涯独身の女たちが住む「ベギン会」へと移り住んだ——。
佐藤亜紀の『喜べ、幸いなる魂よ』は、自然がもたらす自由と偶然を祝福する物語だ。自然というものを単純化して人間を眺めると、雄と雌が番(つが)いとなり、子どもを産み育て、種をつなぐという"摂理"らしきものが見えてくる。だが無作為で無目的な自然は、そんなわかりやすい摂理だけでは回らない。自然は被造物に自由を与え、偶然を生み出し均衡をとる。ヤネケが移り住んだ「ベギン会」も摂理からは外れた存在だ。ベギンは男と番わず、子どもも産まない。だが世俗を離れた修道女とは異なり、自らの手で稼いで生きる。
ヤネケは自由だ。あまりに自由なので母親から〈人でなし〉と称される。産んだ子どもにはほぼ関心がなく、自分を想い続けるヤンには他に妻を娶るようすすめ、確率論の研究に没頭する。男の名前を借りて論文を出版し、時には手慰みに読み物もしたためる。だが本当に〈人でなし〉かというとそうでもない。家族のために帳簿を確認し、ろくでもない口をきいた子どもには(トラウマになるほど)きっちりと教育を授け、救貧院から人を集めて紡績の仕事を回す。
ヤネケだけではなくベギン会の人々もエッジが効いていて、そこいらのルールには収まらない。禁書を収集し、異端スレスレの神学論を繰り広げる院長。この時代の女性には珍しく屋根職人として身を立てるアンナ。ベギンの外でも、テオを筆頭に、摂理に沿うだけでは生きていけない人々が描かれる。
そして何より、本作が見事なのは、摂理に沿って生きる人々も丁寧に描かれている点だ。ヤンを引き取ったファン・デール夫妻。親のすすめに従って結婚し、子どもをもうけ家を守るテオの妻カタリーナ。 そして〈誰にも好かれる感じのする〉主人公ヤン。摂理と自由を二項対立させるのではなく、偶然を交えて混沌と描いているからこそ自然であり、自然を美しいと思うように、小説世界を美しいと感じる。
最後の一行に辿り着いてから、タイトルを声に出して読んでみる——人にとっての幸いとは、恋愛や結婚や出産だけではない。一緒の食卓につく誰かがいること、そして、自由の喜びに溢れる誰かを見守ることもまた、誰かにとっての幸いなのだ。
※2022年9月4日開催の『山形小説家・ライター講座』に提出した原稿を改稿したものです。