桜が散り、一年で最も干満差が大きい季節が訪れた。エビアマモの緑が磯を彩る。こんなに力強く、美しい緑色を私は他に知らない。生きていれば希望はあるさ、と語りかけるような緑だ。彼らは海の下に隠れてしまうような足場の低い磯に居着いているため、見学するには充分に潮位が下がる必要がある。日中で、さらに充分な見学時間を確保できる季節やタイミングは一年の中でも限られている。ここでは、それはわずか数週間のことだろうか。
エビアマモに目を細めつつ、私はやはり竿を持ってたたずんでいた。磯のサラシを行き交うスズキや、産卵を控え体力を蓄えている根魚たち。この新緑の季節、磯場は一年でもっとも生命に満ちた世界となる。とはいえ今日は足元の小さく、穏やかな潮溜まりに用事があった。土地の言葉で「バッコ」と呼ばれるような、ハゼ類やさまざまな稚魚などの可愛らしい魚たちが、この天然の水槽の中で生きている。近所の山で切り出した篠竹で作った竿、小さな針、そしてカミツブシオモリ。エサは岩場についているシオリを砕いて使う。幼い頃からさんざんやってきたシンプルな釣りだが、海が美しい季節になるとついやってみたくなる不思議な魅力がある。
釣りは仕事ではない。かといって遊びかと聞かれれば、そういう範囲に収まらないほどには釣り人はその人生を費やしてしまっている。両手に抱えきれない釣り竿、釣りに行くことを最優先に考えた働き方、釣り場に迅速に赴くことに特化した生活。このような偏差のことを考えると、時折めまいに似た感覚を覚えるときがある。俺は一体何をやってるんだ、と。
そんなに魚が好きなら漁師にでもなるといい、と言う人もいる。確かにそれも悪くないかもしれない。漁獲の量と単価、それをかけ合わせた粗利から原価を差し引き売上とする。ただ恥ずかしながら、仕事/労働として魚と触れ合うには、私はあまりに不真面目だと思う。今まさに私が糸をたれている潮溜まりと、そこに住むスモール・イズ・ビューティフルな魚たち。こうした世界は、お世辞にも現代的な漁業の世界とは言えない。あまりにも不真面目で、市場経済との距離がありすぎる。では釣りとはなんなのだろうか。そのことを少し考えてみたい。
近年、余暇に関する社会学において「シリアスレジャー」という概念が紹介された(杉山・宮入(編)2021)。これはカナダの社会学者であるロバート・ステビンスが次のように定義付けた概念である。また杉山はこれを受けて次のように解釈している。
「シリアスレジャー」は「キャリア」と表現されるような「専門性」と「持続性」によって特徴づけられる、体系をもった余暇活動のことを示している。私自身も含め、おそらく少なくない釣り人が「シリアスレジャー」としての釣りを実践しているだろう。両手に抱えきれない釣り竿、釣りに行くことを最優先に考えた働き方、釣り場に迅速に赴くことに特化した生活。あの偏差は、まさにこの「継続性」と「専門性」という概念の表現にほかならない。しかしそれ以外の尺度はないのだろうか。潮溜まりを前にして、ふと考える。バッコを狙うこの釣りにだって、確かにシリアスな「継続性」や「専門性」はある。あるがしかし、どちらかというと誰しもがふとした時に楽しめるカジュアルな側面が強いように思う。この二分法はどちらかの優位を決定するものではないにしろ、もう少し定義を拡張して考えることもできるのではないだろうか。「継続性」と「専門性」という二軸がシリアスレジャーの二次元的な表現だとしたら、第三軸が存在するのではないだろうか。少しこの第三軸について考えてみたい。
バッコ釣りを踏まえて考えると、この第三軸は「市場経済や資本主義からの距離」が関係しているように思う。例えば職業として従事する漁業では、シラスが不漁であればハマグリ漁に従事するだろう。鯛が不漁であればサヨリを獲るかもしれない。採算が合わなければ休漁もありえる。当然と言えば当然だが、生活のために魚を獲るのであってその逆はありえない。しかし「シリアスな」釣りにおいてその関係は逆転する。もちろん釣り人にも資金が必要だ。釣り道具や釣りエサ、釣りに適した環境を整えるためにはやはりめまいがするような投資を行っている。しかし唯一異なり――そしてタチが悪いのは、ここで投資された資本が決して自らの生活の再生産や資本の増殖に寄与しない、ということだ。釣り道具や釣りエサは生活の役に全くたたない。それがあっても衣食住は決して満たされない。当然お金が増えることもない。漁業との対比においては、下記のように図示できるかもしれない。
(仕事としての)漁業
漁獲→(販売)→貨幣→(支払い)→消費財→(消費)→生活→漁獲
(「シリアスな」釣り)
漁獲→/
漁業において、末尾の「生活」と冒頭の「漁獲」は接続し円環をなしている。このループを繰り返すことが、漁師としての生活であり、業としての漁業だ。方や「シリアスな」釣りにおいて、漁獲の先は/によって切断される。もちろん釣った魚を食卓に並べればその日一日の食は足りるかもしれないが、それで生活の円環を回すことはできない。バッコ釣りにいたっては、魚が小さすぎて食用には向かないだろう。この切断の具合は「シリアス」さの度合いに応じて、その切断面の鋭利さが増していく。「シリアスな」釣り人の中には釣った魚を持ち帰らない流儀を持つ人々も少なくなく、釣り上げた魚に対し十分な蘇生法を施してリリースすることが美徳として見られる向きも(全てにおいてではないが)存在する。ここにおいては、かろうじて食卓によって生活へとつながっていた細い糸が完全に断ち切られているといってよい。無論、この先鋭化は優劣とは関係のない話だ。それは「活動への『取り組み方』」の差異なのだと思う。その差異の一端、つまり「シリアスな」極の位置は市場社会的生活から遠く離れている。
では「カジュアルな」釣りはどうだろう。先の図式に即して考えると「カジュアルな」釣りは下記のようになるのではないだろうか。
「カジュアルな」釣り
漁獲、あるいは釣りという行為そのもの→(余暇の充足)→生活
「カジュアルな」釣りにおいて、釣りは余暇の充足を埋める手段、すなわち杉山が解説するように「労働のためのエネルギーを回復・再創造(re-creation = レクリエーション)するための休息や気晴らし」(前掲HP)として扱われる。例えば、気持ちのよい初夏の昼下がりに防波堤に出て、澄んだ海に竿を出す。缶ビールを持ち込めばなおいい。あるいは家族と連れ立ち砂浜でピクニックがてらに釣りをするのもいいだろう。サンドイッチとコーヒーを持っていった方が良い。熊手があれば潮干狩りもできるかもしれない。このような釣りは、その先に生活がしっかりと結びついている。潮風をあびて十分に心身をリフレッシュすれば、いずれ来る日常の中でもなんとか耐え忍ぶことができる。
このように考えると業としての「漁業」や「カジュアルな」釣りには、しっかりとその先の項が存在する、とも言える。だからその先がない「シリアスな」釣りは、そのような仕方でかかわらない者から見れば奇異に映るのだ。ここにおいて生活は触媒として作用する。つまり釣りをするために生活を維持する必要があるが、そこに釣りと生活との相互依存的な関係がない、という意味で断絶があるのだ。たしかに釣った魚を売るとか、釣り道具を作って売る、あるいは知識や経験をコーチングするなど、閉じた環の中に釣りを「埋め込む embed」方法はある。プロフェッショナル、すなわち業として釣りに従事するプレイヤーはそうしていることだろう。そうではないシリアスレジャー・プレイヤーの振る舞いが、そうしたプロフェッショナル・プレイヤーのスタイルと明確に区分できるとしたら、この軸、すなわち市場からの距離が議論されても不思議ではない。あの円環を断ち切った地点に見えてくるのが、シリアスな何か――ひょっとするとそれを「芸術」であるとか、ハンナ・アレントにならって「仕事」と呼べるかもしれない――なのかもしれない。
このことについて、前掲書の著者の一人である青野桃子は自由時間の政策的な利用を踏まえ次のように語る。
また杉山も同様に語っている。
私たちが所有する時間軸が限りあるものであり、その中で生活を営む必要がある以上、そのサイクルを回すための労働(あるいは仕事)が時間使用上の中心となってしまう。だからそうでない時間をどのように使うのか、ということと労働に従事する(せざるをえない)こととは必然的に関わり合いをもっているのだ。それは対立的に関わる場合もあれば、滑らかにつながっている場合もあるだろう。境界があやふやな場合だってある。シリアスレジャーを語る上で、そうではない時間との関わり合い、つまり労働=市場社会=近代的資本主義からの距離を測るということは、分析の上で有効な視座を与えるのではないだろうか(前掲書の中で、音楽活動に従事するバンドマンへの調査を行った野村駿(前掲書、pp67-75)、地下アイドル活動の調査を行った上岡摩奈(同、pp86-94)の論文は、仕事と趣味との距離に関する論考として読むこともできるだろう)。
以上のことから、あらためてシリアス―カジュアルレジャー、そして労働(仕事)を図示してみると次のようになる。
Z軸に「市場(社会)からの距離」を加えた三次元でマッピングしたものの、これが正しいのか否か、言及できない頂点も多くあまり自信がない。あくまでポンコツな作業仮説として読んでいただきたい。
点Aは労働(仕事)とした。高度に発達した現代社会において、どのような労働であれ、専門性や継続性と無縁な業種はなく、それは市場社会そのものに密接にリンクしている。点Bのカジュアルレジャーについては、杉山らが語るように継続性や専門性が薄い。そして前述の通り、労働→生活→労働の円環を踏まえると、市場社会には密接に関係していると言えるだろう。またC点、すなわち「市場社会からの距離が遠く、しかし専門性も継続性も薄い」地点について、実際にありそうだがそれをなんと呼んだらいいのか決めかねている。無為の時間、ただ海原をボーツと眺める時間のことだろうか。それはそれで、私たちの生にとってとても大切なものだ。点Dをシリアスレジャーとした。これまでの議論の通り、シリアスであればあるほどその行為は市場社会から遠く離れていく。そしてステビンスの定義にある通り、その専門性や継続性は労働(仕事)と同様に高い位置にある。
繰り返しになるが、これらの位置づけはその行為の優劣を決定することとはなんの関わりもない。それは個々人のライフスタイルの中で決定づけられることであり、他者は関知は不可能だ。そして加えて言うならば、ある行為の位置づけは、きっと各頂点に位置づけられない場合も多いだろう。点A〜点Dの間を前後する行為もあれば、点B〜点D間を行ったり来たりすることもある。あるレジャーに新規参入していくものにとって、もしかした点として定まらずにボンヤリとした「にじみ」としてこの立方体を覆う膜を形成するかもしれない。自ら作図しておきながら、同時にこのような作図が危ういものであることも承知している。余暇とは、自由時間とは、そしてレジャーとは、このような幾何学的な位相で位置づけるべきものではないのではないか、という思いも一方で捨てきれない。
ただ一つ言えるのは、この立方体を参考にした時、そこに詰まりうる無数の点が、仕事、趣味、カジュアル―シリアスレジャー、あるいはたしなみや道楽、レクリエーションの行為者それぞれのスタイルの表現であるということだ。各頂点に回収されない濃淡のある点、そしてもしかしたら移ろいゆく点であることが、個々人の行為に「スタイル」という名の個性を与え、それがあるいは一世を風靡したり、時代を表現したりするのかもしれない。インディーズ・パンクバンドの姿勢や在野研究者の矜持。そして仕事人としての責任と信頼。ある行為をその人がどのように考えているのか。すなわち行為を包む「スタイル」の多様さが、もしかすると個人の行為をタコツボから取り出し、文化や時代といったものを形作るのかもしれない。
潮が満ちてきた。潮溜まりがまた海中へ消えていく。エビアマモの緑も海水で隠されてしまった。正午に向けて日は高いが、そろそろ納竿の時間だ。今日はたくさんのアゴハゼと戯れたし、大物のイソギンポにも出会えた。水槽に一時貯めておいた彼らをもとの潮溜まりへ返していく。初夏の北東風が心地よい。この風が吹くともう田植えの季節だ。今度は地上が稲穂の美しい緑で埋め尽くされる番だ。田植えだってきっとあの立方体のどこかに位置づくのかもしれない。もしかすると魚たちの生も。私がそれを考えるのは無粋が過ぎるというものだろう。私は一方で、釣りという行為を、その水域を理解するための技術である、とも考えている。知識や経験、技術や道具によって、その土地の水域の潜在力を理解していこうとする試みが、釣りの楽しみの一側面なのではないか。このような考えは、あの立方体に位置づくのだろうか。市場から遠く離れた地点で、手製の篠竹竿をしまいながらこのようなことを考えていた。
参考文献