わたしはスリザリンに行く。
札幌地下街を夫と歩いていると、ハリーポッターのグッズショップが目に入った。
期間限定のポップアップストアらしいのだけど、内装がずいぶんと凝っていて即席の店舗には見えない。通路に出ているポスターを見ると、九月の末から来年一月までと随分前から開かれているようだった。
ショップの名前も、『マホウドコロ』となかなか雰囲気が良い。カタカナ表記なのがより「ぽさ」を高めているように感じられる。わたしたちは吸い寄せられるように、どちらからともなく店内に入った。
開店して間もないという訳でもないのに、マホウドコロの中には若い女性が多くいて、棚と棚の間は身体を斜めにしないと通れないほどだった。ハリーポッターの小説がブームになったのはわたしが中学生の頃だったと思うけれど、人気は未だに健在なのだから驚く。
商品はぬいぐるみからステーショナリー、それぞれの寮のカラーのソックスやケープと幅広い。
出入口の近くに百味ビーンズが並んでいた。何年か前に弟からのUSJのお土産でもらったそれは未開封のまま、未だ我が家のパントリーで眠っている。その悪名は常々聞いていたので、忘れたフリをしてそのまま実家に置いてきたのだったが、彼は後日わざわざ「忘れ物だよ」と届けてくれたのである。今年こそ大掃除のときに捨てようと思う。
結局ひやかすだけひやかして、何も買わずに店を後にした。
店を出てすぐ、夫が「俺たち、レイブンクローだと思う」と言った。
レイブンクロー。確か、知識や創造性を重視する生徒が入る寮。
なるほどね、と思う。
わたしは日々新しい知識に触れていくことと文章を綴ることが好き。絵も描く。ピアノを弾き、歌をうたう。
対する夫はレジンで日夜色とりどりのウミウシフィギュアを生成している。独学でホーミーを会得した感覚派でもある。
揃って騎士道精神や気力、献身や勤勉などという気質とは程遠く、たしかにレイブンクローである、と妙に納得した。
と、同時にnoteの街の路地裏のみんなもきっとそっくりそのままレイブンクロー行きだな、と思った。中には穏やかなハッフルパフっぽい人も数名思い当たるけど、9割くらいはレイブンクロー。寮がパンクしないか心配になる。
ふと、わたしの寮は本当にレイブンクローなのだろうか、と違和感をおぼえた。
最初はたしかにレイブンクローだった。純粋に書くことで遊び、他の寮生と楽しく過ごしていた。
最近のわたしは、このレイブンクローに居心地の悪さみたいなものを感じることが多い。寮生が楽しみにしているプロジェクトにも参加しない、反応しない、見聞きしないという選択肢をとった。心の内に湧き出てきた違和感に気が付かないふりをして参加しても、途中で投げ出すだろうという直感があった。
わたしの在り方が、レイブンクローの在り方とズレてきた。それだけのことだ。
書くことに対する考え方やとらえ方が変化したことが大きい。わたしにとっての書くことは、遊びではなくなった。書くことでわたしが得たい感情、読み手に与えたい影響は、もっと深くて簡単には触れられない、人の内奥にある。
今のわたしにとって書くことは、自己の存在を証明すること。必要な人に届けることで、その人が上げられなかった声となること。
路地裏は、書くことが使命であると確信し、その道を往くと覚悟を決めたわたしの居場所では、とっくになくなっていた。
時節柄、来年の目標というものを立てている。
その過程で内観を深めるべくノートを書き、自分の内側の声を丁寧に拾っていくという作業をした。わたしの内側から聞こえてきたのは、
『SNSでウケるものではなく、文学史に残るものを書きたい』
『消費されていくものではなく、痛みを伴うとしても心に重く響くものを書きたい』
『そのために自分に集中したい』
という明瞭な声だった。
文学賞を獲る。
来年の手帳に書いた、ビジョンに関する目標。そのための締切までの行動目標、行動計画は立てた。自分専用のラップトップも購入した。あとはよそ見せずにやるだけ。我ながら野心的だと思う。
わたしのいるべきは、レイブンクローからスリザリンへと変わったようである。シンボルカラーである緑色のものを身につけて、新年を迎えようと思う。
ハリーポッター、読んだことも観たこともないんだけどね。
なんのはなしですか
この魔法を使うのも、これで最後。この呪文がなくても、わたしは書くことができる。
寂しくないと言えば嘘になる。
でも、わたしは器用じゃないから。今のまま、次のステージに進むことはできない。
だから、わたしはわたしの声に従って、わたしの道を往く。路地裏のわたしを超えに行く。
ありがとう、路地裏。
さようなら、路地裏。
楽しかったよ。ばいばい。