
『わたしの受けるべき杯』
2025年3月2日
私は学生の時に機械工学を学びました。機械の世界ではエネルギーをどれだけ生産力に転嫁できるかというのが鍵になるのですが、どうしても機械である以上、大事なエネルギーが熱などで損失してしまいます。一般的なガソリンエンジンでのエネルギー効率は50%を越えず、半分以上のエネルギーは無駄になっています。これを無駄と考えればエンジンという機械は失われ、40%の高率で満足したらエンジンは廃れるかもしれません。両方に目を向けることで機械工学は発展して進歩していくのです。アメリカでの政治改革を見ながらそう思いました。
どうか主が人の心に深い憐れみを与えてくださるように。
さて、今日もルカによる福音書のなかから裁きについてお話しさせていただきます。
キリストが世に来たのは人を贖い出して救うためというのは真実です。けれども、今日の話はその真逆の話になります。キリスト自ら「わたしが地上にきたのは平和をもたらすためではない」と言っているのです。
■ルカ12:49~53
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」
ルカによる福音書に書かれているこの記事がキリストの福音伝道3年半のいつ頃であったか明記されていないのでわかりませんが、次の箇所から恐らくは3年ぐらい経っていた終盤の頃だったかもしれません。
■ルカ13:6~9
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
聖書でいちじくは「イスラエル」を意味していますので、この例え話は3年もの間、キリストと弟子たちが神の国の訪れを知らせたのに神に立ち返ろうとしなかった当時のユダヤ人の人々について語られた現実の話です。
この時、キリストは降されようとしている裁きと滅びについて多く語られているように思えます。
マタイによる福音書ではさらに「剣をもたらすために来た」(マタイ10:34)という言葉が加えられていて、キリストの強い決心が感じられるような気がします。
私たちはここのキリストの言葉をどうとらえていくべきでしょうか。
【まとめ】
キリストが世に来たのは人を贖い出して救うためというのは真実ですが、これは救われる側のクリスチャンから見たときに見える半面なのではないでしょうか。クリスチャンではない人は「じゃあ、キリストを信じないと救われないってこと?」という疑問を持ちます。はっきり言ってしまうと「その通り」です。
これが、クリスチャンが考えなければならないキリストが世に来られた意味についてのもう半面なのです。
私たちが受ける洗礼が「死」と「復活」を現わすように、キリストがここで言った「洗礼」は最初の十字架による「死」と「復活」です。そこに至るまでキリストは苦しまれるということを言っていますが、これは単純な十字架刑による身体的な苦しみや恐怖とは違います。
キリストはオリーブ山でこう祈られました。
■ルカ22:41~44
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
そして裏切ったユダがキリストを捉えにやってきた時、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(ヨハネ18:11)といって十字架の道を歩まれたのです。
この裏切ったユダこそがキリストの苦しみの象徴であり、彼は当時のユダヤ人そのものだと思います。
キリストは弟子のユダを愛していましたが、同時に彼が裏切ることをも知っていました。
愛するユダのために、あるいは選ばれたはずのユダヤ人(イスラエル)のためにできることなら十字架の道を避けたかっただろうと思います。しかし、彼らを滅びに渡さなければ十字架の救いは成就しなかったのです。
人ですら愛する者の滅びを耐えられないのであるなら、神の愛をもったキリストの苦しみというものはとうてい人が理解し得るものではありません。
だからこそ、キリストは滅びに向かう者のために苦しみもだえ、この杯を受けられたのです。
■ローマ5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
イスラエルの人々は神の栄光をすべての人々にあらわすために選ばれた祭司の民でした。しかし、神に背き続けた結果、滅ぼされ離散し、キリストの時代においても待ち望んでいた筈のメシアを受け入れようとしなかったのです。そのため、キリストを信じたわずかなユダヤ人と異邦人へ祭司の務めは移されたのです。
それは、キリストを信じる私たちが滅びに向かう人々に対して選ばれた民、祭司の国とされたからです。
■1ペテロ2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
でも、もし選ばれたことを盾として「自分たちこそ正しい」と訴えるなら当時のユダヤ人と同じです。「私たちこそ正しい」とほかの人を蔑むのなら、キリストを拒んだ人たちと何の違いがあるのでしょうか。
私たちもキリストの思いに預かって杯を受けるべきではないかと思います。
今、教会が新たな成長をしようとしているこの時、たくさんの霊的な戦いがやってきています。たくさん痛み、悲しみを通されることになるかもしれません。けれども、これを避けてしまったら、尚、多くの人が失われて、より多くの痛みを感じることになるのだと思います。
どうか、主にあるすべての教会が御名によって守られますように。すべての働き手の進む道を照らして励ましてくださるように。
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皆さんの働きが祝福されますように。