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『腰に帯を締め、火をともせ』
2025年2月23日
今年の日本海側では最強寒波などで連日、大雪が降り生活に困難さを覚えられている方が多く、皆さんの知人のなかにも苦労されている方がおられるかと思いますが、どうか困難にあるなかで道を塞がれている人たちを主が顧みてくださるように、雪が溶かされて温かい春の訪れを喜ぶことができるようにと祈ります。
さて、前回は聖霊についていつもとは違う形でお話しさせていただきましたが、今日はまたルカによる福音書のなかから、主人の帰りを待つ僕の話をさせていただきます。
少し似た話が福音書にはいくつかありますが、ここでは主人が婚宴に出席していつ帰ってくるかわからない状況で例え話が語られます。
■ルカ12:35~40
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
帰ってくる時間を伝えとけばいい話じゃないかと思うところかもしれませんが、ユダヤ人の婚宴ははじまって1週間ほど続くそうです。そりゃ、ワインも無くなる訳ですね。(←カナの婚礼)招かれた人はずっと1週間もいるわけではなく、途中で参加したり帰ったりしていたようです。
ちなみに現在のユダヤ人の婚礼は日没からはじめられるそうで、神がアブラハムに子孫を星の数のようにすると約束されたことを思い起こすため星の見える時間にはじめられるようです。さすがに1週間は続きませんが、数時間と長く、深夜になるまで食事をともにして踊って喜ぶようです。キリストの時代の婚宴も日没からはじめられていたのかもしれません。参加した主人がいつ帰ってくるかわからないというのはこういった背景があってのことだと思います。
説明するまでもないかもしれませんが、これはキリストが再び地上に来られる時のことを示しています。
ペテロはすかさず、「このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と聞いていますが、キリストはそれには直接答えず、次のように言っています。
■ルカ12:42~43
主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」
ここで、「召し使い」と「管理人」が出てくるんですね。「僕」=「召し使い」だとすると「管理人」は誰???
皆さんはここをどう読むでしょうか?
【まとめ】
この話はタラントの話とよく似ています。
ここでキリストは「僕」≒「管理人」(ニアリーイコール)であることを言っています。この僕はだだの召し使いとは違い、主人の期待を負っており仕事を任されている立場の者であるということです。但し、すべてのものが管理人として相応しい訳ではないのです。
聖書には「帯を締める」という表現がよく出てきます。これは「神の召命、選びへの応答」を意味しています。そこからすると、この僕は単に主人が帰るまで目を覚まして待っているというだけではなく、留守中に家の管理を任されるほど主人に選ばれ、信頼されていたということがわかります。
少しタラントンを預かった僕たちの話を思い起こしてください。彼らは高額な商売上の資金を主人から預かっていました。(マタイ25:14~30)
このタラントンの話、5タラントン預かった僕と1タラントンしか預けてもらえなかった僕で不公平が生じているし、預かったものをそのまま返したことがそんなに悪いことなのか?…と思うかもしれませんが、主人は僕たちに期待し商売の術を手間暇かけて教えたのではないでしょうか。なぜなら、1タラントンは非常に高額な金だったからです。1タラントンの僕が「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」と言っています。もしそうなら、なおさら、能力のない僕に高額の金を預ける筈はないのです。彼らの能力を十分に見抜いた上で主人は自身の商売の跡を継げる僕を選んだのではなかったでしょうか。
■エフェソ3:6~7
すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。
話を婚宴に出席した主人の話に戻します。この例え話でおかしな部分がありますね。
「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とあります。いやいや、そんな訳ないでしょう。しかも「帯を締めて」って、家に帰ってきたんだから主人は帯緩めて休めばいいんじゃないのかなと思うのですが、主人であるキリストは最後まで忠実に仕えた僕を褒めて「賢い管理人」として私たちを食事の席に着かせてくれるというのです。
もうすでに主人であるキリストは十字架により私たちを息子、娘とする召命に応えられているのです。
でも、自分にはそんなタラントンはなく2タラントンはおろか、1タラントンすら預けてもらえていないと思うかもしれません。
大切なところなのでよく聞いてください。5タラントン預かる僕は恐らく、1タラントン受け取った僕を見て同じように思ったのです。なぜなら、主人はその人物の能力を見て鍛えられるからです。
5タラントン預かる僕の訓練がほかの僕よりも軽いということなどはあるでしょうか。その人は何度も失敗の経験や挫折を通され、叱責され自分の力不足を痛感させられると思います。ほかの僕を羨ましく思ったに違いないのです。けれども主人が見放すことはありません。
腰に帯を締め、応答して祈るとき、その手に主が多くのタラントンを委ねられているのを見る筈です。
■ヘブライ12:5~6
わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。
もしかしたら、今、あなたは教会の後ろの隅に座り「わたしのようなものなど…」、「わたしにには何もできない」と思いながら、教会で目立った働きをするクリスチャンを見て落胆しているかもしれません。「自分は毎日、生きるだけでせいいっぱいだ」と、思うかもしれません。
わたしもそうでした。
どうか主が祈るあなたの目を開き、手のうちに預けられているタラントンを見せてくださるように。耳を開いて「わが子よ…」との語りかけを聴かせてくださるように。
祈ります。
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皆さんの働きが祝福されますように。