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日本を離れて14年、引きこもり大学生だった私がうつと向き合うまでの話。

中学生のときに日本を離れざるをえなかった私は、14年間の海外生活の間、引きこもり大学生となり、そして異国の地で休職と復職を繰り返す社会人となった。そんな私がうつと向き合うまでの半生について。


自分語りは好きではない。私は親しい友人との間でも自分のことはあまり話さない。

けれど、幼くして日本を離れ、海外で生活することを強いられてきた私の体験は、客観的に見ておそらくユニークなものであり、もしかしたら、なぜ私がうつに至ったか、というストーリーに何かしらの需要があるかもしれない、という小さな仮説をもとに自分語りを少ししてみる。

長くなるが、できるだけ簡潔に、読んでいて飽きないように心がけるのでどうぞ付き合ってほしい。

1. 震災から始まる第二の人生

2011年の震災。あの天変地異をきっかけに、私は母国を離れた。

震災当時の私はごく平凡な中学生。友だちには恵まれ、充実した学校生活と青春を送っていた。

そんなある日、昼間の眠たい時間、教室が激しく揺れる。授業中にもかかわらず、先生がテレビをつけ始め、津波で車が流される映像が教室に流れる。

震災から数日後、気がつくと私は飛行機に乗っていた。両親が日本は危ないという理由で東南アジアへの海外移住を決意したのだった。

当時の私は正直目まぐるしく変化する身の回りの状況にただただ見を委ねるしかなかった。さよならも言えなかった学校の友人たちとの別れ、両親以外の家族との離別、日本語は通じない見知らぬ土地、次に行く学校すら決まっていない。私はこのまま中学生ニートになるのだろうか。。

幸い次の学校は現地の日本人中学校に決まった。がしかし私の心は閉ざされたままで、友だちと胸を張って言える友人はなかなかできなかった。そして学校から帰ってきては、陰謀論のブログを読み漁る、なんとも引きこもり体質な中学生へと変貌した。

年は明け、少しずつ現地の生活に慣れ始める。周囲とも打ち解けることはなく、友だちは相変わらず少ない。そんな中、進路の話が少しずつ出てくる。

周囲は現地での日本人高校、もしくは帰国して高校受験をする中、私が選択したのは英語で現地高校に通う、ということだった。

なぜそうしたのか、おぼろげな当時の記憶のかけらを集めてみると、私は周囲とは違う選択肢を選びたかったのだと思う。そもそも学校では周囲と打ち解けてない私。友人もいない。だったら一から全く違う環境に身を置いてみよう。

陰謀論と並行して、英語は人並みには勉強していたので、カタコト程度では話せた。ので現地の高校に入学すること自体はそこまで苦ではなかった。

2. カタコトの英語で海外の現地高校へ

現地の高校に入学したのは良いが、大変なのはそこからだった。

入学初日、教室へ入り簡単な自己紹介を英語でする。心臓がバクバクに破裂しそうなくらい緊張する中、教室内を見渡してみると、なぜだろう。ガキ大将のような出で立ちの白人が、私を見て大爆笑している。

後々わかったことだが、彼は私が制服のシャツをズボンにタックインしている見慣れない姿が、面白おかしくて笑っていたそうだ。たしかにまわりを見渡すと、皆シャツがズボンから外に出ており、シャツの裾をズボンに入れている人は私以外だれもいなかった。

そんな彼とは数学のクラスで何回か答えを教えてあげた程度の関わりで、高校時代を通して友だちになることはなかった。

そんな文化の違いについで、苦労したのが英語。カタコト程度は喋れたが、それでは足りない。授業についていけない。何を先生が言っているのかが分からない。

親の知り合いの英語の家庭教師を雇い、私が陰謀論ブログに費やす時間は、英語の特訓へと変わった。(断っておくが、陰謀論は高校一年目で卒業した苦笑)

努力の甲斐もあり、一年経つと、私の英語力はわずかながらも向上し、学校でも周囲に友人と呼べる人が増えていった。まだまだ日本語で話すときの会話の深みとは程遠かったが、シンプルなコミュニケーションでも文化の違う友人とのつながりを感じられるのは心強かった。

3. お金がないのに海外大学という壁

日本を離れて3年、そんな高校二年生の私が直面した最も大きな壁は、大学をどうするかという問題だった。

私の両親には色々と事情があり、私が日本の大学を受験することは許されなかった。よって残った選択肢は海外の大学。だがしかし、金銭的事情から、両親に海外大学の学費を払うお金はなかった。

つまり私が与えられた選択肢は、自分でなんとかして奨学金を取り、海外の大学に進学すること。しかなかった。

今考えてみると、どうかんがえても八方塞がりである。英語を覚えたて2年目のほやほや高校生が、海外で奨学金なんてどうやって取れるものだろうか。奨学金というのはその国の優秀な学生に向けて大学ないしは政府が配る宝くじみたいなものではないのか。なぜその国の出身でもない私にそんな宝くじへの応募資格があるのか。

結果的には、それでもなんとかなった。どうしてなんとかなったのかは、今考えても8割運、なきはするが、当時の私は私なりにがんばったのだろう。

拙い英語力で入試エッセイの添削を先生に毎日頼み、しらみ潰しに奨学金が出ている大学を調べ、募集要項に沿った書類やエッセイを準備して行く。まわりの友人達がのほのほランチを食べている間、私は必死にエッセイの添削を頑張った。勉強も、相変わらずリスニングが苦手な私は、先生の英語が理解できないから授業で何をやっているのかちんぷんかんぷん。なので、教科書をひたすら読み勉強する。そんな地道で先の見えない三年目の高校生活。

その結果、一つのとある大学から奨学金のオファーをもらい、進学することが決まった。複数の大学からオファーはきたが、奨学金付きでのオファーはその大学だけだった。やっと人生に光が指す。親元を離れて自由になれる。そんな気がした。

4. 引きこもりに引きこもった大学生活

そんな明るい道筋が見え始め、思い描いていたキラキラ大学生活は、蓋を開けてみるとドブ沼だった。私はキャンパスの亡霊、引きこもりニートと化した。

奨学金をもらっていながら、自室に引きこもり、授業もほとんどいかない。なんて恥さらしなやつなんだ、と今でも思う。

だが今思うと私の『うつ』はここから始まっていたのだ。

バラの大学生活を夢見ていた私だったが、現実そんなうまく行かない。大学一年目の数週間は、表向きの様々な課外活動に参加し、授業も難しく相変わらず教師の言っていることはちんぷんかんぷんだが、頑張って出席は取った。

しかし、大学生活が始まって一ヶ月。早くも私には限界が訪れていた。というのも、当時の私には遠距離の彼女がいた。この彼女がかなりトリッキーで、簡単に言えば、毎晩自殺をほのめかす不安定彼女だった。そんな中、私も死なれては困ると、授業が終わってから寝るまでつきっきりで電話をする。そうした生活を一ヶ月続けている内に、私は「共依存」の関係へと陥っていた。

授業中やご飯を食べているとき。何をするにも彼女が死んでいないか、が気がかりで何も手につかない。大学デビューで作った友人とは、私があまりにも自室にいつもこもり電話をしているので、早々に疎遠になった。夜遅く、ひどいときには明け方まで電話しているので、授業にも段々と行けなくなり、欠席の数が積み上がる。

きづいたときには詰んでいた。大学生活が始まって3ヶ月。私は授業に行くこともなくなり、ただただ起きてから寝るまで自室に引きこもり、彼女が死んでいないかという恐怖に常に苛まれていた。

そんな中、学期末試験の時期。教授やTutorたちから単位が取れないという通達が来る。今考えてもなんとも恥さらしな状況である。

そんないっぱいいっぱいな私は、とあるきっかけで学内の医者とアポイントメントを取る機会を持った。優しそうなおじちゃん先生を前にして何を話せばよいのかうろたえている内に、それまで人生でほとんど泣いたことがなかった私は号泣した。それまで悩みをだれにも打ち明けることができていなかったのだ。彼女が毎日死のうとしているから不安で気づいたら引きこもっていました、なんてとてもとてもだれにも言えない。

そんな私におじちゃん先生は、休学してはどうか、と投げかけた。正直、奨学金をもらっていながら休学なんてしたら二度と戻って来れないんじゃないか、と不安で仕方なかったが、大学にその学期中残っても単位を落とすことは確定だったのでどうしようもなかった。

そこから私は数ヶ月大学から休みを取り、高校時代に住んでいた土地へ。そこから現地の大学に通っていた高校時代の友人の家での居候生活が始まった。幸いなことに、私の友人は非常に寛容で、むしろ私が居候することを喜んでくれた。

今考えると、うつ状態でボロボロの私を優しく受け入れてくれた友人には頭が上がらない。そして当時の私に自分がうつであるという自覚は到底なかった。

大学二年目からの私は、休学から復帰し、当時の彼女とは色々とあり、疎遠になった。一年目の大学デビューで作った友人と、たまにキャンパスですれ違うと、キョドるを通り越して、ただただ引きこもって休学までした自分の劣等感で自己嫌悪に陥り、目をそらす。友人は数人新しくできたが、キャンパス内を歩いて知り合いとすれ違うことが怖かった二年目の私は、自室に引き続き引きこもり続けた。

そんな私に転機は。。正直言って訪れなかった。転機というのは何らかの大きなイベントによって人生が動かされることだと思うが、特に大きなイベントごともなく私の大学生活は三年目、四年目と過ぎていった。

しかし一つ言えるのは、大きな変化はなかったが、時間が経つごとに私は少ない友人との仲を深め、自室に引きこもる時間は、ほんとうに少しずつだが減っていった。

相変わらず知り合いとキャンパスですれ違うことが恐怖で、食事はダッシュで自室に持ってかえったりと、自室の外ではストレスの多い生活だった。けれど同時に、私の数少ない友人と、酒を飲んで語り合ったり、近くのモールに買い物へ行ったりと、一緒に過ごす時間はとても貴重で楽しいものだった。

授業の方はというと、相変わらず欠席のほうが圧倒的に多かったが、出席が少なくても試験で点数が取れれば単位が取れる授業を選んだおかげで、単位がこぼれ落ちることはなかった。

5. どうする海外就職

そんなこんなで残りの大学生活も一瞬で過ぎ、四年目。引きこもり奨学生の私は、ニートのまま飲まず食わずで一生を終えようかと頭をよぎったが、現実は甘くない。

大学生活中に親とはずいぶんと疎遠になっており、卒業したら自分で稼いでいくしかない。

日本で就職もかんがえたが、再び親ブロックが入った。日本に帰ってはいけない。当時の私は充分すぎる自我が芽生えてはいたものの、親に逆らうということは恐怖であり、とてもできなかった。逆らえば縁を切られる。そんな親との離別という極めて原始的な恐怖が頭をよぎる。

大学受験のときのデジャブである。

日本に帰国の可能性はない。海外で就職先を探すしかない。

とりあえず手当たり次第、古今東西さまざまな国の会社にレジュメを送り続けた。だがしかし、返事が来ない。返事が来るとすれば、お祈り爆祈祷メールのみ。ただでさえメンタルゲージが赤の引きこもり大学生ニートの自尊心がすり減っていく。

それもそのはず。返事が来ないのには理由があった。私はインターンをしていなかったのである。根っからの引きこもりニートの性根が染み付いていた私は、まわりがインターンに勤しんでいる夏休み中も、家で相変わらず引きこもり生活を続けていた。そして海外の新卒を探している会社のほとんどは学生側がインターン経験を持っていることが前提。それはどこにも引っかからないわけだ。

そんな中、転機が訪れた。ボストンキャリアフォーラムである。

これは私のようなインターン未経験超絶引きこもりニート大学生にとっては願ってもない一発逆転のチャンスであった。

というのもボストンキャリアフォーラム通称ボスキャリでは、一次面接から最終面接まで最短三日で行い、早ければ三日以内に内定が出る。そして参加しているのは日系企業だけではなく海外企業もいる。これは行くしかない、と空白の多いレジュメを手にして降り立ったボストンの地。

運気爆上げの舞を引きこもっている間に身につけていた私は、縁がありイギリスの会社から日本人クライアント向けの営業職のオファーをいただいた。

皮肉なことに、ニート引きこもり野郎が営業職である。だがこんな引きこもりニートの私も、三日の間ならば化けの皮を被ってキラキラ好青年を演じることができた。なんせ将来の飯がかかっているのだ。ちなみにオファーをいただけた海外企業はその一社のみだった。

そんなこんなでなんとか就職先を決めて大学のキャンパスに帰った私は、引きこもる時間が、少しだけ減った。化けの皮満々キラキラ好青年野郎を演じた余韻でキャンパスに戻り、少しだけ以前の明るい自分にもどることができた。

そんなこんなで卒業した年の夏、キラキラ好青年野郎をいったい何日間会社で演じられるのだろう、と不安でいっぱいの私はイギリスへと旅たった。

6. 順調な新卒一年目、全てが崩れ去る三年目

演劇部でもない私の会社でのキラキラ青年演技への不安もさることながら、営業職として働き出した私の一年目は順風満帆であった。

人間、環境が大切だとつくづく思う。同期に恵まれた私は、すぐに研修期間に会社内での友人を作り、気がつくとキラキラ好青年野郎が普段の「私」になっていた。ちなみにキラキラ好青年野郎モードの私は英語でも日本語でもそつなく会話できる。ニートモードでは友人との会話すらままならないのに不思議である。

仕事も順調に覚え、コロナで在宅になった二年目には昇進。やっとのことで掴んだ平穏と安泰。

だがそんな安寧のときもまもなく終わりを迎える。

当時入社して三年目の私は、仕事だけでなくプライベートも充実していた。

マッチングアプリで出会った一人の女性と付き合い始め、出会ってかなり親しくなった三ヶ月目。パッタリと彼女からの連絡が途絶えた。理由は分からない。私が何か気に障ることをしただろうか?根っからの依存症の私は、その時点ですでに精神的に彼女に依存しきっていた。そんな中の突然の放置。

連絡が途絶えた理由は、彼女の数年付き合った元彼がよりを戻したいと連絡してきたため彼女自身がうつ状態に入ってしまったため、と数カ月後に判明した。だが当初の私はそんなことは思いもしない。ただただ自分を責める日々がつづいた。

ここまででお察しの方もいるだろうが、私は愛着障害を持っている。幼い頃の母親との関係が不安定であったことも影響して、恋愛関係においては強い依存もしくは共依存の状態に陥りやすい。だがそれも自覚したのはもっと先のことである。

悪いことは積み重なる。彼女からの連絡が途絶えた私に拍車をかけるように、今度は職場でも不穏な空気が流れ始める。

私の当時のチームはかなり小さく、私と二人の仲が良い同期、そして二人の先輩と一人の上司で回っていた。そんな中、家族のように親しくしていた同じチームの同期二人が、ちょうどコロナ明けの同じタイミングで、転職先が見つかったので会社を辞める、と私に伝えてきた。

ただでさえ当時の彼女からの連絡が途絶え、親とも疎遠な私は、コロナ禍の中孤独に苦しんでいた。そこでの二人の親しい同期との別れ。離別に離別が重なり、私は限界だった。だがまたしても限界であるというときに限って、私にはそうであるという自覚がなかった。私は、同期は所詮、仕事仲間であって、友人でも家族でもないから割り切れ、と自分に言い聞かせ続けた。

元々家族とのつながりが希薄で兄弟もいない私は、物心ついてから一人で家で過ごす時間が極端に多かった。そんな孤独だった私にとって友人というのはとてもとても大切な家族のような存在だった。だが当時の私はそんな自覚すらなかった。

7. 無自覚の「うつ」と休職

当時の彼女と親しい同期との「離別」を経て、私の心はズタボロだった。なんせ話す友人が日常にいない。孤独である。

そしてオミクロン。再び在宅に戻る日常。そんな中最低限の業務はこなしたが、私はベットから起き上がれなくなった。身体が鉛のように重い。自分の人生の先には暗いトンネルしか続いていないように思える。いっそ車道で車に轢かれてしまおうか。そんな暗い暗いかんがえしか起きている間は浮かんでこず、ずっと意識を失い寝ていたい。そんな気分だった。

きがつくと業務にも影響が出ていた。そんなとき、会社の人事のポータルか何かを見たことをきっかけに、私は心療内科にかかることになった。人生で初めての心療内科。そして初アポイントメントで、幼少期の境遇、度重なる離別、洗いざら医者に話して言われたのが、「うつ」という言葉だった。

当初の私はうつに対しての理解が拙く、医者のいうことは到底素直に飲み込めなかった。私は身体を動かそうと思えば動く。ちょっと重いのであって、自殺願望もその時が初めてではない。うつなのではなく、私はうつ症状を演じている健康な若者である。と自分に言い聞かせた。もっとも当初の私は本当にそうだと心から信じていた。

だが仕事をその状態で続けることも難しかった私は、渋々医者の勧めを受け入れ、休職届けを出した。その時の罪悪感たるや思い出しても身震いする。私は自分のことを「うつ」という仮病を使っている罪人だと思っていた。だから上司にその状態について大まかに打ち明けるときも、数少ない会社での仲の良い同僚に話すときも、常に嘘をついているという強い罪悪感がつきまとった。

そんな罪悪感で押しつぶされそうだった私に、休職が始まったタイミングで大学時代の友人から連絡が入った。彼の当時滞在していたトルコに、具合が悪いのなら一緒に来てしばらく住まないか、という誘いだった。

イギリスにいても会社を休んでいる今、らちが明かないし会社を休んでいるからといって調子が良くなりはしない閉塞感を感じていた私は、一言返事で次の日にはイスタンブールへのフライトを取っていた。

数ヶ月間のトルコでの滞在は私を少しずつ癒やした。私の友人は寝てばかりの私に軽蔑の目を向けるわけでも文句をいうわけでもなく、ただただありのままの私を受け入れてくれた。そうして日々をすごす内に、段々と生きる活力が再び湧いてくる。

8. 復職、そしてカウンセリングという長い旅が始まる

未だに自覚のない「うつ」からやっと回復し始めたころに、私は会社に復帰した。休職期間も終わりを迎え、働きたいという意欲が湧いてきた。

幸いなことに、復職後、温かく同僚に向か入れられた私は、すぐに元の職場と家を行き来するライフスタイルに再順応した。

変化したことといえば、月一での心療内科とのアポイントメントというルーチンが加わったことだ。

相変わらず自分がうつ持ちであるということが自覚がない私は、心療内科の医者に「嘘」をつき続けた。症状や体調を聞かれたときに、本当のことを言っているのに、うつの自覚がなかったため、まるで私は嘘つきのように感じられた。

そんなある日、医者からセラピー(カウンセリング)の勧めを受けた。薬は処方はされていたが、私は飲んだ「ふり」をしていた。これには理由があり、以前親がうつを発症した際に、処方された薬を飲んでいたが、どんどん体調が悪化していき、薬は効かない、むしろ悪化させる、という刷り込みができあがっていたためである。これに加えてそもそも自分のことをうつ持ちだと思っていないわけだから薬など飲みたくない。

そんな中でのセラピーの勧め。実は休職直前にしばらくセラピーをやっていたのだが、それはうまく行かなかった。セラピストとの相性の問題だったと思う。そしてどうやら今回医者がすすめているのは違うタイプのセラピーらしい。以前やったのは認知行動療法で、今回はフロイト派の精神分析。

否と言う理由も特になかったので、私は事実上二回目のセラピーを始める。

初めてのセラピーでのセッションを未だに鮮明に覚えている。

うつの自覚もなく、怖いもの見たさでノコノコやってきた私を出迎えたのは、人の良さそうなポルトガル人のおじいちゃん先生だった。部屋には寝心地良さそうなベッドがあり、本来はそこに横たわり、中を見つめながら先生と話をするらしいのだが、今回はイントロセッションなので、横たわることはせずに、おじいちゃん先生はただただ、私がここまで書いた内容の話にずっと耳をかたむけていた。私がこのセラピーの目的は何なのですか?と尋ねると、おじいちゃん先生は、「これはあなたのセッションだから、あなたが好きなように使って良いんですよ。」と私に答えた。その日から私の日常にセラピーが加わる。

そしてこれが長い長い自分とうつと向き合う旅の始まりとなったのだ。

9. そしてうつと向き合い始める

セラピーを初めた私は、やっと震災からの長い海外生活の中で、ずっと孤独に耐えていた自分自身を救いに行く旅路の入口に立った。

週に一度、おじいちゃん先生のいる部屋でベッドに横たわり、宙を睨む。そして頭の中に浮かんできた思考の雲について一つづつ先生に話していく。それを毎週続けていくと段々と気がつく。私はずっと辛かったのだ。そしてそれを今まで自分自身が認めてあげられていなかったのだ、と。

私が自分のうつを始めて自覚したのは、そんなセラピーが始まって四ヶ月目の夏休みだった。夏休みといっても、私が夏休みを取っているのではなくて、おじいちゃん先生が休みを取るのだ。イギリスではセラピスト(カウンセラー)の先生が一ヶ月ほどの休暇を8月に取るのは一般的だ。もちろんその間セラピーはおやすみとなる。

そんな「初めての夏休み」。私は調子を崩した。それもそもはず、私の精神的な安定はセラピーによるものが大きかった。だからそのルーチンが崩れることはメンタルの安定が崩れることを意味した。

再びベッドから起き上がるのがしんどい日々が始まる。身体が鉛のように重い。あれ。。前もこんなことあったなあ。

そこで私は考えた。自分のうつが仮病であるならば、ある程度体調が悪くても、それを自分でコントロールできるはずだ。調子が悪い日でも、仮病であるなら元気を出して奮い立たせることができるはずだ。

しかし私の身体はそんなに言うことを聞かない。鉛のように身体が重くベッドから起き上がるのもしんどい日は、どれだけ自分に起き上がれと念じても、階段を上がることすらむずかしい。

そしてそれを期に、私は、どうやら「自分の身体をこう動かしたいという念」に反して身体が全く動かない、という状態は、れっきとした「うつ状態」であり、自分の気合でなんとかなる問題ではないのだ、と初めて根性論と自分の体調の割り切りができるようになった。

そしてそうかんがえることで楽になった。罪悪感と自責の念が消えていく。ああ、これは仮病じゃなかったんだ、と。根性論でどうにかなる話ではないと気がつくということは、『うつ』への自覚を意味した。そして自覚してから初めて私はうつと向き合わなくてはいけない、という自分に対してのある種の責任感が芽生えたのであった。

本望ではないながら、二度目の休職を強いられ、うつへの自覚がやっと芽生えた自分。そこからはうつと向き合う日々が始まる。

週一で通っていたセラピーは頻度を週二回へと増やした。自分の体調はこまめに毎日日誌にとるようにした。瞑想しているときの心地よさが忘れられず、ヨガに通い始めた。ウェアラブルデバイスに自己投資し、身体の体調管理にもこまめに目を向けるようにした。

私は絶望していたのだ。

こんなに頻繁にうつ状態になり、休職をやむなく繰り返す私は、一体どうやって今後の人生生きていけばよいのか。今後またこの苦しみを幾度となく繰り返し味わって生きていくのか?

そして、同時に希望に満ち溢れていた。

もしかしたら、『うつ』とうまく付き合っていく方法が分かれば、少しは生きやすくなるかもしれない。糸口が見え始めたきがする。逃げずに向き合い続ければ、今までずっと感じてきた、言葉にできない辛さをかんじなくてもよくなるかもしれない、と。

再度二度目の休職から復職した今、まだ答えは見えない。

私の旅はどうやら始まったばかりのようだ。






ここまで読んでくれたそこのあなた。本当に本当にありがとう。

そんな素敵なあなたの今日が色鮮やかな一日でありますように。










ここまで読んでいただきありがとうございます。サポートしていただいたお金は、うつを治すため色々と試し、記事にするための資金とさせていただます!