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『VIVANT』事後考察(2)

乃木と野崎のバディ感

主人公である「別班」の乃木と公安の野崎のバディ感も、見どころだったと思います。

バディものというのは、一般的に、意図せずに行動を共にすることになった二人が、徐々にお互いに対する理解を深め、その関係が変化していく(たいがいは良い方向に)というもので、その変化に私たちは感動したり、憧れたりするものですね。

当初、乃木と野崎の関係は、基本的に野崎が乃木を守る、助けるという関係でした。少なくとも野崎はそう思っていたわけです。しかし、乃木が実は「別班」だったことがわかり、どの程度乃木が守られていたのかよくわからなくなります。

大使館への退避やそこからの脱出、国境までのルートの選択、更に砂漠縦断の道のり、モンゴルとの国境のトリックなど、明かに野崎の知見と人脈のように思えます。乃木は、野崎の能力を見抜いて、彼を信頼し、任せたということのように思えます。

野崎の方では、中盤で乃木が「別班」であることを疑い始め、それが徐々にふくらみ、バルカでの防犯カメラ映像などから、それを確信するに至ります。その時の野崎の「あの野郎・・・」という苦笑いは、自分が乃木の掌に乗せられていたことへの口惜しさとともに、さすが「別班」という敬意が入り混じるもので、このドラマの中で私が最高に気に入った場面でした。

ただし、その後は、乃木と野崎の協力関係の昇華というよりは、「別班」と公安の競争という雰囲気になっていきます。「別班」が、ベキのもう一人の息子ノコルを確保するチャンスを見出し、公安に先行する形でバルカに乗り込みます。その後は乃木の「裏切り」へと続くわけですが、その過程で乃木は発信機と写真を使って野崎に秘かなメッセージを送り、ロシア側テロリストの確保と「別班」メンバーの救命を公安に頼ります。

このあたりで、乃木による全ての計画は野崎への絶大な信頼に裏付けられたものであることがわかります(むしろ、そうであったことが後でわかると言った方がいいかもしれません)。

このように、前半は野崎リードの関係が、後半はむしろ乃木リードの関係になっていくという変化、その中で両者が互いの素性や能力を発見・理解し、信頼関係を深めていくという流れがあったと思います。

ただ、ドラマ後半は乃木やベキの半生の振り返りやテントの実態の描写などに重きがおかれる関係で、どうしても野崎の登場場面が少なくなり、バディものの雰囲気が薄くなってしまいました。そこは、ちょっと残念でした。

ところで、バディ的な雰囲気は、もう一組、野崎とバルカ警察のチンギスの関係というのもありました。バルカを脱出する第三話までの流れで、チンギスは怖い存在でしたが、悪い人間ではなく、「敵ながらあっぱれ」という印象を与えました。その彼と野崎が物語後半で協力していく姿は楽しいものがありました。ただ、チンギスは発見したカメラの映像の解析にその人脈を活用するとか、一緒にカメラ映像をのぞき込むとか、それほどの活躍がなかったのは残念です。

「VIVANT」の意味

さて、「VIVANT」の意味です。

もちろん物語上は、「VIVANT」というのは音だけで、日本語の「別班」がそう聞こえたということだろう、ということになんとなく落ち着きました。冒頭で視聴者の注意を引くためのタクティクスとしても、謎の「VIVANT」とは何なのか?と言って惹きつけるというのはありでしょう。

ただ、それだけであれば、「VIVANT」ではなく、「BIPAN」とか、もっとそれっぽい言葉でもよかったわけです。私はモンゴル語(バルカ語?)の発音や文字はわかりませんが、世界的には、日本語の「バ」行とちがって、「V」と「B」はそれなりの違いと認識されていると思います。「V」はどちらかというと「F」に近いと思います。

やはり「VIVANT」には、タイトルとしての本当の意味があると思います。

第一話の終わりの方で、薫が、フランス語にVIVANTという単語があること、「生き生きとした」とか「快活な」という意味であることを言っていました。ここにもちょっと意図的なものを感じます。フランス語のVIVANTの意味として最初に来るのは「生きている」という意味です。英語で言えば、"alive"とか"living"です。

私がこのドラマのタイトルだけ先に聞いた時、黒澤明の『生きる』かな?とさえ思いました。後で調べたら、黒澤の『生きる』のフランスでの公開タイトルは "VIVRE" (英語の”LIVE”)だったので、もちろん全く関係ないことはわかったのですが。

薫にわざと「生きている」という意味を言わせなかったのは、あえてその意味を隠そうという演出上の意図があったのかもしれません。考えてみたら、このドラマのいたるところで、死んだと思っていた人が生きていたという驚きや感動がありました。それがこのタイトルの隠された意味なのかもしれません。

誰よりも、乃木はベキにとって愛する息子であり、若くして生き別れます。必死に探したものの、息子は亡くなったという情報を耳にし、絶望の淵に追いやられます。それが今回、立派に生き抜いて、なんとテロリストである自分たちを追い込む「別班」として自分の前に現れた。まさに、息子は「VIVANT」だったわけです。

逆に、日本の公安にとってみれば、ベキこそ「VIVANT」だったわけです。困難なミッションに送り込み、その上で、彼を見捨て、すべての記録を抹消した。当然死んだと思っていたら、テロリストになって日本政府に復讐せんと、生きていたわけです。

それ以外にも、砂漠でラクダから落ちた薫が生きていた、ジャミーンが死の淵から生き長らえた、殺されかけたハッカー太田が一命をとりとめた、脅迫の材料に使われたアリの家族は死んでいなかった、撃たれた「別班」員が生きていた、など数々の「VIVANT」が繰り返されます(ラストで撃たれたベキとその仲間二人も実は・・・VIVANT?)。

そのあたりは、ややこじつけ気味ですが、やはり「生きていた二人の乃木」というのが、「VIVANT」なのでしょう。

ところで、困難なミッションを負わされた上で見捨てられた主人公が、何とか生きながらえ、見捨てた人間に復讐するという話は、アンドリュー・V・マクラグレン監督の映画『ワイルド・ギース』('78)を思い出しました。あの映画でも、主人公を演じるリチャード・バートンとロジャー・ムーアの目の前で救援機が引き返し、敵の真っただ中に置き去りにされます。多くの仲間を失いながらも生還した二人。彼らは、目の前に現れた彼らに驚く依頼人に対して、復讐を遂げます。

官房副長官に出世した元公安幹部(橋爪功)の前に現れたベキ。彼は、まさにその覚悟だったわけです。

「俺は生きているぞ!」と。

(つづく)


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