【私にだけしかない特別なもの】 誰かの真似をしようとすると人生が行き詰まることに気づいた
こんばんは。Likaです。
今日は、なんだか書きたい気持ちになって、徒然なるままに自分のために書き始めました。
誰かに読んでもらうために書いていないので、読んでくださる心のお優しい方に、長文で取り止めがない話であることを先にお詫びしておきます。
「色」は私の人生の大切なもの
小学生のころ、好きな色は「緑」と答えていました。矢沢あい先生の「天使なんかじゃない」の翠ちゃんが好きだったのもあるけれど、本当は、「赤」「黄色」「オレンジ」「ピンク」みたいな可愛い色を好きだと言う勇気がなかったから。
周りから大人っぽいと思われたかったから。
翠ちゃんが好きだから「緑」次に好きなのは「青」それが小学生の私。
中学2年生のとき転校することになって、美術の先生が、ガラス美術館で買ってきたのよ、と「黄色」い花のガラス細工のお餞別をくれました。
今から思えば、中学生が転校するときに、そんな洒落たものをくれたこと自体が不思議ですが、私は美術の授業が好きで、筆記のテストも満点だったし、授業中や夏休みの宿題で描いた絵やデザインはすべて、今後の後輩のためのサンプルとしてすべてこの先生に渡しました。
私は美術部ではなかったから授業以外で話をすることはほとんどなかったけど、きっと何か他の生徒とは違う特別さを感じて、わざわざお餞別をくれたんだろうと思います。
お餞別をくれたときのことを今でもよく覚えています。『「黄色」があなたのイメージにぴったりの色だから』と先生が言ってくれたこと。とても嬉しかった。
それから私は『「黄色」が好き』と言えるようになりました。
「赤」や「ピンク」を受け入れるのには時間がかかったけど、大学生のころには、たくさんの色を自分の中に受け入れられるようになりました。
そして、あるとき、私は「色が好き」なんだと気づきました。
鮮やかな色、その組み合わせのデザイン、グラデーション。
何色が好き、とかではなく、「色というのもの」が好き。
この世に「光」があって初めて認識される「色というもの」。
その「色というもの」の存在があることが自体、有難いこと。
そして、大学を卒業して教師をしているときに、自分が「共感覚」を持っていることに気づきました。自分にとっては当たり前だと思っていたことが、他の人に必ずあるものではないと、そのとき初めて知りました。
私にとっては、楽譜の音符には全て色がついています。
色で音符を認識しているので、ピアノやサックス、クラリネットを演奏するとき、初見演奏がどうやら人よりラクだったようです。ただ、高い音は薄い色なので高すぎると全部白っぽく見え、低い音は濃い色なので低すぎると全部黒っぽく見えるので、どちらも色の識別が難しく、高すぎる音や低すぎる音は、初見でパッと弾くことができません。
私にとっては、文字にも色がついています。だからか、文章を読むのが少し人より早かったり、パッと見て画像として暗記することが人よりラクなようです。色の並びが変だったりすると違和感があるので、誤字脱字にも人より気づきやすいのかもしれません。
ただ、自分の色とは違う色で書かれている・塗られていると違和感があって、あまり上手く読めません。だから、色がついた文字のデザインや動画・テレビのテロップよりは、すべて黒色の文字の本や教科書を読むのほうが私にとってはラクです。
カタカナは全体的に白っぽいので、文字の違いを瞬時に識別できないし、うまく読めません。おかげで世界史の授業が苦手でした。カタカナで書かれているよりは、英語で書かれている方が色がついていて文字を識別しやすいので、読みやすい気がします。
数字にも色がついているので、もしかしたら、それも数学という学問を学ぶことを人よりラクにしてくれていたのかもしれません。一瞬見ただけで数字の並びを覚えて使っていると、ときどき、人から驚かれたりもします。ただ、数字の並びではなく、色の並びを見ているだけなので、実は数字は覚えていなくて、見た色から数字を連想している感じで、数字が合っているかどうかは半信半疑な感じになります。
足し算と引き算もとても苦手で、2つの数字を見ると、おそらく経験的なものから、パッと答えのような数字が思い浮かぶのですが、2つの色の足し引きでなんでその色になるのか頭がこんがらがります。例えば、茶色(8)と水色(13)を足したのに、なぜピンク(21)になるか、とても不思議で、頭の中が「?」でいっぱいになります。
結局、色の情報をどうにか頭の脇に置いて、頭の中で数字を10や5の塊に分解してから、その余りを足したり引いたりして確かめないと、思いついた答えが正しいと判断ができません。そういうことが私の頭の中で起きているので、計算の答えを聞かれると、すぐに「たぶん、だいたい〇〇くらい」と答えたあとに、何度も検算して、「あ、あってるっぽい」というのが私の日常です。「数学の先生なのに、足し算と引き算が苦手ってどういうこと?!」といつも言われるのですが、たぶん、色の情報が邪魔してしまっているのだろうと思います。
でも、数字は本当にカラフルだし色んな質感を持っているので、とても好きです。
「アート」「文章」「音楽」「数学」「食べ物」「インテリア」「ファッション」「お花」「空」「街」
私が好きなものにはすべて、色がついていることに気づきました。
そして、私にとっては「人」にも色がついています。その人自身の色と、その日のその人の空の色。
色は単色でないことが多く、ある部分にだけ違う色が混じっていたり、どこかの角度から光が差してその部分だけ白っぽくなっていたりします。
別にオーラが見えるとか、そういうものではないと個人的には思っています。その人の名前の文字の色が見えているのかと思ったこともあったのですが、名前の文字とは別の色だったりすることも多いので、自分でも、その人の何の色が見えているのかはわかりません。
ただ、「人の色が見えるんです」というと、私を知っている人は、「うん、そうだろうね」となぜか納得してくれます。納得されるのでその人も色が見えているのかと聞くと、そうではないらしいです。なぜ納得できるのか不思議です。
でも、
色がついているから、たぶん、私は「人」が好きなんだろうな。
今までその発想はなかったけれど。
最近、自分の中の価値観を整理していて、今まで自分の中での優先順位が低いと思っていた「Relationship」が一番自分にとって大事なんだと気付かされました。
ずっと「人が嫌いだ」「人は苦手だ」と言っていたのに。
周りの人は私のことを「人見知りしない」「人たらし」「話しやすい」と言ってくれるけれど、私の中では、ずっと、「人は嫌い」「人は苦手」でした。
でも、たぶん、私は本当は「人が好き」なんだ。だって、色がついているから。
そして、「Art」と「Beauty」も私にとっては大事な価値観。色があるから。
お金やキャリアは、私にとってはあまり重要ではないらしい。だから簡単に、無計画に、大して何も考えずに仕事を辞められるんだな、とガッテンしました。辞めるときに考えるのは、残された人の心情や仕事量だけで、自分の生活や未来については全く気にしていませんでした。
いろんな人が不思議そうに「なんで仕事辞めたの」「もったいない」「またやればいいのに」と言ってくるわけもわかりました。みんなにとって、お金とキャリアは大事な価値観なんだ。
今、私は、すべての色が好きだけれど、10年近く前から、なぜか「オレンジ」に惹かれて、一番好きな色は?と聞かれると「オレンジ」と言うようになりました。とにかく色々なものを「オレンジ」で集めました。
ハワイに来たとき、あるお金持ちのおじいさまに、『なぜ「オレンジ」なの?』と聞かれて、『「オレンジ」は私を元気にしてくれるから』と即答しました。たぶん、本当にそう。一方、隣にいた友達は「黒」と答えていました。「他の色を引き立たせてくれるから」と。「好きな色は、その人自身を表すんだよ」とおじいさまはにっこり笑っていました。
私が「オレンジ」好きを公言していると、周りの人が「オレンジ」のものを見るたびに私を思い出してくれていることに気づきました。私を思い出してくれているとき、同時に、私の生き方を思い出して、考えや行動を変えたりしていることもあると知りました。
色という視覚情報は、人やものと結びつくことで、情報量が一気に増す気がします。そして、情報の大波が、その色を見た人の人生を変えることもある。なぜなら、この世界は光があって、毎日、色で溢れているから。
数ヶ月前から、私の身の回りから「オレンジ」が少しずつ消えていることに気づきました。持っている服は「青色」が多くなり、カバンや靴は「黄色」ばかり。好きな食器も「青色」が多い。私の部屋はたくさんの色に囲まれているけれど、以前に比べて圧倒的に「オレンジ」が少ない。
そして気がつくと今の私は「紫」に惹かれている。紫の空、紫の花、紫の壁、紫のクッション。なぜか「紫」が私を引き寄せる。もしかしたら、人生の次のステージに来ているのかもしれない。そう思っていた矢先、ふと思い出したことがありました。
小学校低学年のころに買ってもらった傘は「うす紫」だったこと。
周りの大人たちは不思議そうに言いました。「本当にこの色でいいの?」と。
「うん、これがいい!!」
歳の離れたお姉ちゃんがローマ字でその傘に名前を書いてくれたのが、かっこよく見えてすごく嬉しかったな。
無邪気で、自分に素直で、周りを気にしてなかったあのとき、私は「紫」が好きだったんだな。
きっと、今、そのときの自分に戻ろうとしているのかもしれない。
仕事も恋愛も、ずっと周りの目を気にして生きてきました。周りが喜ぶ顔、納得する顔を思い浮かべて行動していました。期待されている私を演じていることに気づいていたけれど、気づかないふりをしていました。それがずっと自分の心を苦しめていることも、わかっていたのに。
でも、もう、これからは、笑顔で無邪気に「紫」を選ぶ自分でいていい。
周りがどう思っても気にしない。
あなたらしくない、なんて言われてもいい。
私らしさは、自分で作る。
自分を取り戻す。色を楽しむ。
本質を見出すこと
私は、数学の中でも、たまたま「数理モデル」という分野に引き寄せられてしまい、数理モデルを作る「数理モデリング」が専門になっています。准教授をしていた大学は辞めてしまったのですが、一応、研究員として他の大学に名前は残していて、そしてありがたいことに研究を手伝って欲しいとこれまた他の大学の先生から、お声をかけていただいたので、まだ数理モデリングやコンピュータシミュレーションをして遊ぼうかな、と思っています。今は業績を積む必要がないので、ただ楽しんで研究ができる気がしています。
最近は、「数理モデル」という言葉も一般的に広がってきていて、メジャーな言葉になりつつありますが、「数理モデル」にはいろいろとジャンルがあって、あるジャンルの「数理モデル」だけを知って、それを「数理モデル」だと思っていると、あるところでは、全然違う話だったりして頭がこんがらがります。数学の中でさらに分野が分かれているので、その分野の違いで「数理モデル」の意味が変わってしまいます。
こういう、分野が違うと意味が変わるということはよくあって、例えば、「次元」はわかりやすい例です。
「次元」は、数学であれば、1次元、2次元、3次元、、、n次元と数字が増えていきます。一般的にも「次元」はこのイメージだと思います。
しかし、物理で「次元」というと、物理量を表します。「長さ」の次元、「重さ」の次元、「時間」の次元、「温度」の次元、などなど。私が専門とする「数理モデル」ではこの「次元」を使った「次元解析」がとても重要です。
「数理モデル」はさまざまな分野の融合領域なので、同じ「次元」でも、そのときどきによって、意味の使い分けを自然としています。
「この次元は何?」と言えば物理の「次元」の話。
「これは何次元?」と言えば数学の「次元」の話。そんな感じです。
数理モデルも、「このモデルが、、、」と指している対象によって、どういう意味のモデルとして言っているのかが完全に変わります。ややこしいので、説明は、割愛します。たぶん、江崎先生の本とかで上手く説明してくれてるといいな、と思ったけれど、今確認したら、タイトルが「データ分析のための数理モデル入門」だったので、たぶんあまり説明されていない気がしてきました。数理モデルの全体は網羅していなさそう。ちゃんと読んでいないのでわからないですけど。
「私が専門としている数理モデル」は、この「江崎先生の本の数理モデルではない」ので、やっぱりややこしいですね。
私は、さまざまな現象を数学的な表現で記述する「数理モデリング」をするのですが、そこではデータは見ますが、データの解析は別に重要ではありません。そもそもデータ分析は、現象の一側面を見せてくれているに過ぎないので。
重要なのは、さまざまな現象の共通点を知ることです。
1つの現象だけを見るのではなくて、たくさんの現象を見る。全く違うように見える現象から、共通の部分に気づくことができれば、まだ数理モデルが存在しない現象に対して、数理モデルを作りやすくなります。
つまり、私の専門は現象の「共通点を見出す(本質を見抜く)」こと、そしてそれを「誤解のないように表現する(数式化する)」ことです。
私の人生は、自分の中でやろうと決めたことは基本的には叶えていて、自分の中で上手くいかなかったと思い込んでいた恋愛でさえも、自分がそうしたくてそうしていたのが今ではわかっています。
恋愛は仕事やキャリアの邪魔だといつも感じていたので。
男がいないと平和なんだけどな、と思っていたので。
この人タイプじゃないんだけどな、と常々思っていたので。笑
そのころの私にとっては仕事やキャリアが重要な価値観だったから、家族を持つことには一切興味はなくて、そのスタートとなってしまう恋愛も、上手くいってしまっては結婚することになってしまうので、できる限りうまくいかないように自分で仕向けていました。
じゃあ恋愛しなきゃいいじゃん、って思うんですけど、なぜか恋愛は常に舞い込んでくるんですね。一難去ってまた一難、という感じで。
実は恋愛だけじゃなくて、仕事やキャリアも、なぜか色んなことが常に舞い込んできていました。全く自分が想像していなかったことが「え?私ですか?」みたいな感じで。こちらは、一幸やってきてまた一幸、という感じでしょうか。でも常にチャレンジングというか、前例がないことをやることになるので、イージーなものが舞い込んできているわけではなく、チャンスという名の高い壁を、はい、どうぞ、飛んでくださーい!って言われる感じです。断れる雰囲気はそこにはありません。そういう意味ではこちらも一難去ってまた一難、という感じ。
恋愛も仕事もキャリアも、舞い込んできたものをありがたく受け取って、経験と幸せをいただいて、手放して、そして、また次のものが舞い込む、の繰り返し。
人から見たら、すごく上手くいっているように見えるようですし、自分自身も苦労してそうなったという感じではなく、チャンスという名の高い壁も、いざ飛ぼうとして近づいていったら、そこまで高い壁ではないことに気づき、その壁を越えるプロセスも結構楽しめました。その代わり、めっちゃ集中して勉強したり仕事したりすることになりましたけど。
なぜ私の人生では、こんな現象(結果)が起きているのか、その原因(本質的な要素)を自分なりに分析してみようと思いました。
「共通点(本質的な要素)を見出して、誤解のないように表現する」ことが私の専門なので。
まずは、自分のマインドや得意なことを列挙してみます。
ずっと続けるって大事だけど、別に程よいところでなんでもやめていいと思う
私は、全体像がわからなくても話を最後まで聞き続けることができる
なんの契約(付き合ってる確認とか結婚の約束とか、そもそも結婚とか)もなくても人を信頼できる(好きになれる)し、そういう契約の必要なしにそばにいてくれる人が、本当の意味で信頼できる人(真実の愛)だと思っている
人によって何を幸せと感じるかは違うと思う
私の幸せを私以外の人が評価することはできないし、私も他の人の幸せを評価しない その人が幸せと思っているならそれでいい
勉強はあまり得意じゃない 私は、研究の方が好きだしやりやすい
私は自分で、なんでも決められる
タロットカードは、towerのカードが1番好き
雨にうたれるのが好き
普通はつまらない
「あなたなら絶対できる」とよく言われるけど、それを言われているときの私の頭の中は真っ白で今後の計画は完全にノープラン
全く知識のないことに対して時間とお金を使うことに躊躇がない むしろ知っていることに時間とお金を使うことには抵抗がある
集中力がある
私の好きな場所は試験会場 みんなが集中して何かを考えていて、絶対みんなの頭の中はうわーーー!!ってなっているのに空間としては静か、というあの緊張した感じがたまらなく好き 美術館も同じような理由で好き 頭フル回転している人や感情が揺さぶられて何かを感じている人が静かに集まっているのがとにかく好きでその場にいると心が躍る それを感じるためだけに必要もないのに資格試験やTOEICを受けに行ったりしていた
他人が何を信じて生きていようと私には関係ないので興味はないし、私が何を信じて生きていようと他人には関係ないと思っているのであまり自分の信念を人に話さない
何が起きても、それを経験できたことがまず面白いと思う
引越しがとにかく好き 死ぬまでにできる限りたくさん色んな物件に住みたい
何かに時間と労力をかけるとき、今後に役に立つかどうかなんて全く考えない
新しいことをするのが好き
誰もまだやっていない「初めての人」になることが多いし、他の人がまだ経験していないことをするとき、すごく楽だと感じる
お金がなくなることへの危機感が全くないので、何度も0(というかマイナス。人にお金を借りることがある)を経験しているけど、すぐに回復できるだろうと思っているし、実際その後すぐにお金を稼げるようになって、すぐに返せてきた
こういう私のマインドや得意なこと、好きなことを周りの人に話すと、99%の人からは賛同を得られない。
「それ私(俺)無理やわぁ」「それ私(俺)はめんどくさい」「それ私(俺)は怖い」「それ私(俺)は嫌い」みたいな反応ばかり。
たぶん賛同を得られたのは、今の彼くらい。彼の思考はとても私に似ている。
このマインドのおかげで、私も彼も、これまで自分のやりたいことを結構、満足にやってきている。
ただ、2人とも、0やマイナス、すべてを失う、みたいなことも経験しているので、実は、順調そうに見えて、浮き沈みが激しい。
たぶん、このマインドの中に結果(色んなことが舞い込んできて幸せと経験を与えてくれる)を引き起こす本質がある。
おそらく、共通していることを一言でいうなら
自分の手の中にないものは見ないこと
かな、と。
誤解なく伝わるようにもう少し説明すると、
時間について
「未来」は今の自分の手の中にはないし、わからないので、見ない。
たとえ今からの延長線上に「簡単に想像できる既知の未来(他人が歩んできた道)」があったとしても、そのことは考えない。
「過去」も、一側面しか覚えていなかったり美化したり事実を捻じ曲げたりしていることが多いので、記録がないものは考えなくていい。
空間について
「相手の気持ち」は自分の手の中にはないし、わからないので、見ない。
私たちにはそれぞれ心に空間を持っていて、いろんな感情をそこにしまっている。人によっては綺麗に整理整頓して、人によってはぐちゃぐちゃといろんな感情をその空間に散りばめて。
私たちは相手のこの心の空間を覗くことはできない。
相手の気持ちを知る。それは、例えば、日本にいるときに、クロアチアにいる、全く知らない人が、今何をしているのか知ることに似ている(なんでクロアチアなのかというと今、旅行で行きたいから思いついただけで何の意味もない)。
もし、日本にいながらクロアチアのどこぞの知らない人が今何をしているのかを瞬時に知れるとしたら、それって、テレパシー(透視?)ってやつが必要なんじゃないの?と思う。
それと同じく、目の前にいる人の心の中も、もし知れるとしたら、それって、テレパシーってやつが必要なんじゃないの?と思う。
でも私はテレパシーが使えない。
だから、相手の気持ちを妄想することになるけど、それはただの妄想なのでファンタジーである。
私たちが知れるのは、「相手の考え」である。なぜなら、考えは、相手が発信してくれるからだ。言葉だけじゃなく振る舞いや表情で自分の考えを伝えてくれる。
そこから気持ちを妄想することはできても、残念ながら、真意はわからない。だから、その妄想を絶対的なものとして見る必要は全くない。
そもそも人の気持ちは一時的なものですぐに変わるのだから。
その人が感じたいように感じて、生きたいように生きているのだから、その人の気持ちに対して、まわりが何もいう必要もない。
もし、心の中を知りたいと思う相手がいるのなら、じっくり時間と労力をかけたらいい。でもかなりの時間と労力が必要だから、それは特別な誰かにだけすればいい。
他の人には「みんな幸せでありますように」と思っておくだけでいい。
自分の手の中にないものは見ない
そのおかげで、時間も空間も、「今、ここ」に集中できる。
簡単に妄想できる未来や他人の感情にとらわれることがない。
結果、怖いもの知らずで最強な人になる。
向こうみずな行動は、普通、周りの人を不安にさせるけど、それはその本人が確信を持って行動していないからであって、確信を持って、今に集中している人に対しては、なぜか人々は「あなたならできる」という感覚を持つ。
この私の本質的なマインドのおかげで、これまで、たくさんのものが私に舞い込んできたし、たくさんの経験を積んでこれた。
ただ、問題は、私は(彼も)、自分を好いてくれる近い人の感情に振り回されることが多いことだ。じっくり時間をかけた相手だから、心の中をある程度知っているが故に、どうにかしてあげたいと思ってしまう。
そのせいで、行動が少し停滞することがある。
でも、結局は私の本質的なマインドが勝つ。
あるとき突然、「この人は私がいなくても大丈夫」と思うと、何かがプチっと切れて、その人のもとをポンっと去っていく。
また、新しいものに出会うために。
私が今、ときどき悲しくなるのは、また突然、私の中の何かがプチっと切れて、ポンっと彼のもとを去っていく日が来てしまうのではないか、ということ。
単純に今は、そうやって彼のもとを去っていくことになったら、寂しいな、と思う。
そのわりに、これまで何度も私の本質的なマインドが顔を出して、彼のもとを去ろうと試みた。今のところ失敗続きで、まだそばにいる。
ただ、「今ここ」しか見ていないから、未来がどうなるのか自分でもよくわからない。
確証があるのは、「今」と「自分」だけ。
それ以外は程度はあれど、所詮は妄想の部分が入ってしまう。
ファンタジーに生きるのもあり。それはそれで楽しい人生だ。
ファンタジーに生きないのもあり。たぶん少数派だけど、だからいつも誰もやってないことに出会えるからとても楽だ。
既にやられていることをトレースするのがラクか、まだやられていないことを挑戦
的にやってみるのがラクか。
たぶん人によって、ラクな道が違う。
私は圧倒的に後者のほうにラクさを感じる人間だ。誰もやっていないから、何をやっても許される。前例がないってとてもラクだ。
だから逆に私は、誰かの真似をしようとするとしんどくて、心が全く動かない。心が動かないから行動もできない。
自分がラクな方で生きよう。
「賢い」と言われるよりも、「ずる賢い」と言われる方が嬉しい。ニヤリって感じ。
私の生き方を、「理解できる」と言われるよりも、「なんでそんなことするのか、まじ意味わかんない」って言われる方が嬉しい。フフフって感じ。
自分にしかない感覚を研ぎ澄まして、自分のことをバカだなって笑って、生きていきたい。
未来のことなんて何も考えないでバカになれる人が、最強なんだ。
私は賢くはないから、ずっとバカでいられる。
常に知らないことがたくさんあるから、常に何か新しいことを知ることができる。
常に進化できるなんて最強だ。
こんな自分が好きだ。
たぶん誰よりも自分が自分のことを好きだ。
自分にしかない特別なもの
みんな言葉にしないだけで、それぞれ持っている、自分にしかない特別なもの。
誰かの真似をしている姿よりも、その人がその人の本質的なマインドで生きている方がずっと魅力的。
キャリアの階段を少しずつ登っていくイメージは、誰かの真似をしている感じがする。
キャリアってなに?って言いながら、エレベーターですぐに上まで行くイメージは、自分の本質的なマインドを使っている感じがする。
階段で少しずつ登っていくと、時間がかかるだけじゃなくて、上まで行った後、なかなか降りられない。
すぐに降りたらこれまでの努力が無駄になった気がするし、すでに登ってきて疲れているし、当分は、ここからの景色を眺めていたいと思ってしまう。
でも、エレベーターで上まで行ってしまえば、景色を一通り楽しんだら、またエレベーターですぐに降りようと思える。
次は、あっちからの景色を見てみよう。
そう思って、違う建物のエレベーターを探しにいく。
面白いのは、エスカレーターかな。
エスカレーターは、登るのはラクだけど、必ず何度も立ち止まって、その場、その場の景色を見ることになる。
しかも必ず方向転換させられる。
何度も方向転換するから、結局は真っ直ぐ上に上がっているだけなのだけど、ラクをしつつ、プロセスを楽しむ感じ。
どれが好きかは、人によるんだろうな。
私は、もともとはエスカレーターに乗るのが好きだったけど、今は、エレベーターの方がいいかな。
残りの人生、色んな角度からの景色を楽しみたい。
登っては降りて、登っては降りて。
登るたびに、違う場所を見つけて。
次の目的地を決めて。
そしていつかきっと、ヘリコプターに乗って、色んな景色をいつでも見られるようにするんだろうな。
そんなことできるわけがないって思うのも、
いつかそんなことが起こるだろうなって思うのも、
どっちも自由。心の中は誰にも邪魔されない。
誰もここを覗くことはできないから。
「今ここ」に集中して生きる。
明日のことも明後日のことも、来週のことも、分かりませぬ。
「今ここ」だけ見てる。
そして、
死ぬとき、「いっぱいバカやったなー楽しかったなー」って大笑いしたい。
Life is incalculable
ここまでお読みいただいた方がもしいらっしゃれば、本当に心から感謝申し上げます。
ただただ、自己満足の文章でした。
若いころは、40歳はもっと大人だと思っていました。
何でも知っていて、何でも悟っていて、落ち着いて毎日を繰り返しているような、そんな大人なのだと思っていました。
でも、もうすぐ41歳になろうというのに、まだ、この世界は知らないことばかり。
まだまだ私は、何もわかっていない。
だから、まだまだ子どものように無邪気にこの世界を楽しめる気がしています。
この世に生まれてよかった。
たくさんの人に出会えてよかった。
これから先も、ワケわからないことたくさんしようと思います。
明日も素敵な1日になりますように。