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多様性

このnoteは2020年6月に公開されたブログをサルベージし、加筆修正を加えたものです。
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多様性を認めよう、という言葉は美しい。
自分と違うからというだけで、他人を批判するのは間違っている。
だから、肌の色のような自分ではどうしようもないことで、人を判断して否定してはいけない。
まさにその通りだ。

一方で、世の中には「自分が好きだからそう生きる」という考え方がある。
みんながスーツと革靴のときに、ポロシャツ、ジーパン、スニーカーという服装を貫く、とかってのも、まあそうだよね。
これを「頭ごなしに否定する」のは、いかがなものかとは思うけれど、その一方で「不文律のルールに抗う以上は『変わったやつだな』と思われても仕方ない」と、本人も自覚したほうが良い。
もちろん、これをもって「イジメは、イジメられる方に原因がある」なんて言うつもりはなくて、イジメるやつは全員島流しにして、天下一イジメ武闘会とかに参加させてやれば良いと思うんですよ。
ただ「多少なりとも他人とちがうこと、変わったことをやる」ってことを決めたならば、やっぱり、なんらかの冷たい視線に耐える覚悟が必要なんだと思うんですよね。

そう考えると、自分らしく生きる、って、やっぱ、結構大変なことで、有無を言わせぬ圧倒的な実力とか、なんでも解決できるレベルの財力とか、そういうものがない限りは、社会の(法的ではない)ルールは、遵守しておいた方が、その先に歩く道が平坦なものになりがちだと思うんですよ。(あるいは、圧倒的な自己肯定感とか、そういうのでも大丈夫かもですが)

別に、暗黙のルールに従え、不文律を許容しろ、と強く主張する気はないんですけど、なんでもかんでも「自由に生きることは素晴らしい」「自分らしく生きる人の権利を尊重しろ」というのも乱暴だよね、と。

結局、どこまでが「標準」で、標準を超えた先のどこまでが「許容範囲」なのかは、人によって違うわけですし、自分の標準、自分の許容範囲を理解しつつ、一方で、それを他人に押し付けるのもまた多様性を毀損してるやん?って話なんでしょうね。

ま、要するに「多様性を保全するって、ほんとに難しい」ってことなんですけども。

2022/6月追記

あとは、「自分らしさの発露」とセットになりがちな「自己顕示欲の強さ」が問題な気もしてきた。
後者がなければ、直接的な関係性のある人からの目線だけなので、相互理解も形成されるしうまくいきそう。
自己顕示欲が強いと、見知らぬ他人からの「社会的正義の鉄拳」が飛んでくるので、サイコパスレベルの心の強さがないと耐えられないよね、、、。

こう考えてみると、

身近な人に「自分らしく生きる『私』」を認めて欲しい

と、

世の中の人々に「自分らしく生きる『私』」を認めて欲しい

と、

世の中の人々に「自分らしく生きる『人々』」を認めて欲しい

とは、それぞれ、まったく異なる話なんですよね。
混ぜるな危険。

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